自燈明・法燈明の考察

久遠実成とは③

 少しここで振り返りをします。
 法華経にはニ箇の大事な事が説かれているから、他の経典よりも信じることが難しく、また理解する事も困難な経典だと言われていました。
 一つは一念三千という法門、そしてもう一つは久遠実成と言われる法門。因みに日蓮を本仏とする思想では、久遠元初という言葉もありましたが、法華経如来寿量品を見て見るに、それは有り得ない話でした。

 一念三千の要旨は、心の働はは仏の働きであり(九界とは無始の仏界に収まり)、過去からの心の働きやそれに基づく因果も仏の働き(仏界も無始の九界に具わる)であると言う事でした。
 そして久遠実成とは、人の心は元来から仏であり、釈迦の遠い過去世からの行いも、全てを成仏した後の姿であるという事。またこの釈迦を教え導いて来た仏もまた、久遠に成仏した釈迦の姿でもあったと言うのです。

 これは大乗仏教の目的の大転換の話です。仏教とは釈迦の様な仏になる事を目指すものであって、釈迦とはこの世界の仕組みを理解し、三惑という心の中にある迷いをも断じきった存在でした。そして人々はそれを目指し、それを求める修行を行い、結果として仏に成ると言っていたのです。しかし法華経では仏は目標ではなく、心そのものが仏であり、過去世からの様々な物語は全て、その仏である心が織りなしたものだというのです。

 つまり求める目的が、実は存在そのものであったという大転換です。

 こうなると短絡的に考えたら「なーんだ、だったら仏教の修行なんていらんやん。だって皆が仏ならもうええやん」という考え方も出てきます。実はそんな議論は「本覚思想(元々人は覚っている)」に関連する議論で持ち上がっていました。

 しかしそれは違います。
 本質的に人の心は元来から仏であり、私達が求めている仏とは、そういう事なんだ。そうであったとしても、それは単に思考の上で知った事にしか過ぎません。実は私達はこの様に論理的に説明され、知ったとしても、それは理解した事にはならないし、知ると理解するは雲泥の差があるのです。
 法華経の教えとしての話を知っても、それを理解しなければ、結果としては何も変わらないし、それでは知った事すら無意味な事になってしまうのです。

 では理解するにはどうしたら良いかと言えば、私はそこを日蓮という僧が語っていた言葉の中に片鱗を見つける事が出来ると考えています。日蓮は弟子の四条金吾に語っています。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」
(四条金吾殿御返事)

 ここで日蓮は、苦しい事は苦しいと理解し、楽しい事は皆と共有しながら、御題目を唱えていきなさい。それが仏教でいう処の「自受法楽」という事なのです。と語っています。

 自分が仏である事を理解するのに、何ら難しい事はありません。日々の生活の中で起きる喜怒哀楽を生ききる事にこそ、実は自分が元来から仏である。それを理解するカギがあるという事なのではありませんか?


 ある意味で、私達がこの世界に生を受け、生まれでてきたことも、こういう事を理解する事が目的なのではないでしょうか。そしてそれこそが法華経で述べられた事の様に、私は理解しています。




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