だから勤行や唱題という行為も、その為のものであろうし、折伏という事も、その実践方法を含めて実は考え直す必要があるわけです。よく自行化他といい、自身を磨くことを自行と呼び、他者に教えを広める事を化他と言いますが、大石寺から始まって、創価学会や法華講、顕正会では、自分の「幸福を祈る事」を自行として、組織を拡大する事を化他としています。
でもこの戦後七十年に渡る化義(修行のあり方)については再考すべき時にきているというのが私の考えている事です。
元々勤行なんていうのも、元来は出家僧が行うもので、こういった出家者の化義を在家信徒(というか職業として古来からの形式伝統を守る人と、社会の中で生きる人)が、同じ事をやる必要なんて無いと思います。
しかし法華経に於いて成仏観がこれだけ変化するのにも関わらず、それでも「成仏する為には云々」とか「活動こそが成仏に結びつく」なんて、法華経以外の成仏観で、「仏になる」という思考を引き摺るのもどうなんだろうと、思ったりするのです。
こんな事を思う中で、直逹正観とか受持即観心という言葉が気になったので、その事について少し考える処を書いてみます。
直逹正観とは、すなわち『直ちに正観に達する』といって、即身成仏の教えだと言います。御本尊(文字曼荼羅)を受持し、題目を唱えることによって、直ちに成仏へと至るそうです。
受持即観心
「受持」とは、正法を受け持つことをいい、「観心」とは、教相(理論・教え)に対する言葉です。受持する事が、即教相をもとに実践じっせん修行した事になり、悟さとりを得ることをいいます。
ここでは両方共の言葉で「成仏する」とか「悟りを得る」というのが使われていますが、創価学会の会員を始めとして、日蓮を語り信仰している宗教では、要は文字曼荼羅に題目唱える事で、それが即観心につながるとか、正観を得られると考えています。つまり「成仏の軌道に乗る」とか言って、功徳(ご利益)満開を信じています。
しかし先まで述べたように、従来の成仏観というのは、法華経では壊されてますし、安易にその内容を「観心」だとか「正観」と言って良いものなんでしょうか。
特に創価学会の会員が、安易に現世御利益信仰に走り、自分自身の心を理解するという事を、一切見ようとしないのは、これらの言葉を安易に受け入れているからに他ならないのです。
そんなにご利益信仰をしたいのならば、日蓮から離れ、稲荷信仰して家に祠を立てた方が、なんぼも現世ご利益を得られるというものです。私が、創価学会を某巨大宗教団体と呼び、そこから離れたのも、そういう組織風土に辟易したからに他なりません。
本当の信仰とは、現世利益を求めるものではなく、今の世界に生きる自分自身を理解する為に、その心と向き合う事だと私は思っています。そしてこの心と向き合う事で、人生として得られる事の方が、現世ご利益信仰よりも多いのです。