「生きている自分」を説明する為に、この世界では様々な事を考えてきました。一元論(これは物質だけが存在するという説)、二元論(これは肉体と魂が存在する説)は常に議論の的であり、人類社会の中では、未だ決着はついていません。一元論者が言うにはこの自分をなす中心とは脳幹であり、私達の日常の生活全ては脳内で起きる電気信号と化学反応による産物であり、それが止まる事が死だと定義します。一方、二元論では魂というのがあって、肉体(物質のもの)は魂の乗り物。だから死とは肉体を脱ぎ捨てる様なものであり、魂は永遠でありそのレベルでは死等は存在しないと言います。
この議論では、「今日の自分」と「明日の自分」の一貫性はどの様に保たれるのかという事が、話題に登りますが、一元論では脳幹組織(ここでいうのは大脳を含めた組織をそう呼ぶ)が同一であるかどうかであり、二元論では魂がどうかだと言います。シェリー教授はこの本の中では一元論を支持しながら、自己の一貫性を担保するモノとして「人格」を取り上げていました。この人格とは記憶や性格全てを含んだものとして、一元論の上で、この人格が同じであれば自分たりうると言うのです。でもこれは二元論に近いのでは無いかとも思いますが、あくまでも一元論(物質的)なモノの上に同一人格があれば同一足りうるというもので、永遠性という点については、講義の冒頭では論じていません。
因みにこの事について、キリスト教の神学ではどうなのか。これは「父と子と精霊」という三身一体論というのがあり、自身を構成するのは三つの身に依ると聞いたことがありますが、細い事は私は神学者でもないので分かりません。
仏教では「三身論」と言うのがあります。元々は仏(如来)とは如何なるものかという事から論じられたそうですが、初期仏教にはこの論はありませんでした。しかし大乗仏教が興り、仏とは釈迦一人ではなく、この世界には様々な仏が遍満するという思想から、この三身論は成立したと言います。
仏教の三身論では仏は三つの身から成り立っていると説いています。
応身:衆生の求めに応じて顕れる姿。一般的に言えば体と言っても良いでしょう。
法身:仏の法の身、時代が経ても変わらぬ本身
報身:衆生を利益する智慧の姿
端的に言えば仏の本体(法身)が人々の求めに応じて出現(応身)して、法を説く(報身)と言う事です。ここで言う報身とは応身+法身となり、例えが適当かどうかはありますが、肉体=応身、魂=法身、活動する姿=報身と捉える事が出来ると思います。そして仏と衆生は一念三千でも異なる事がないのであれば、人々の一人ひとりもこの三身を持つと捉えて良いと思います。
キリスト教もそうですが、仏教に於いてもこの三身論を説く根底にあるのは、命の永遠性という事を表現する為なのではないでしょうか。しかしこの命の永遠性と言うのは如何なるものなのか。具体的に言えば、人は死んだ後にもその心は存続するのか、しないのか。そこに焦点がある話であり、それぞれの宗教で、この事に細い解釈論かありますが、それはその後について来るものだとも思えます。
重要な事は、私達一人ひとりは、この世界が終わった後も、心の活動は止むことが無いと理解する事ではないでしょうか。
しかしこの死後の生命の永続性を、今の科学的に立証する事は不可能です。何故なら命や心というのは「物質」としては認知出来ないものであり、今の科学的は物質について研究してはいますが、こう言った非物質的な事には、なんら役に立たないのは明白です。
とは言え、これをオカルティズムで語る事も非常に危険性があります。何故ならば見えない事は、得てして論理的な飛躍を許容し、人々を簡単に騙すことも可能であるからです。だからこの事を考えるには、論理的にかつ冷静な思考で語らなければなりません。