自燈明・法燈明の考察

臨終正念

 こんなタイトルばかりの記事を書いて、一体どれだけの人が読んでくれるのか、それは全くわかりません。しかしここに書いているのは、私が、日々雑感として考えている事で、自分自身にとっては実にこれが大事な思索の作業となっているのです。
 だから兎に角、書き連ねていきたいと思います。

 「臨終正念」という言葉を耳にした事がある人は、恐らく日蓮の言葉に触れている人だろうと、勝手に考えてますが、これはどういう意味なのか。先ずは代表的なモノを以下に紹介します。

「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、」
(生死一大事血脈抄)

 この御書は、近年では後代の偽書と疑われている生死一大事血脈抄ですが、私のスタンスとしては例え偽書であっても、引用する価値があると自分が思うものであれば、どんどん引用をするというモノです。そもそも大乗経典の最高峰と言われる法華経であっても、釈迦の直説(釈迦本人が説いたもの)では無いのだから、真書や偽書に拘る必要がどれだけ意味があるのかと考えています。真偽に拘るのは学者の仕事であって、私が考えているのは自分としての生き方や、それの基づく自分の思考ですから、御書に対する視点が異なるのです。

 さて、ここで日蓮が語っているのは、強い大信力をもって、この瞬間にも自身の臨終があるとおもい、南無妙法蓮華経と唱え祈っていきなさい。釈迦から私に伝わる生死一大事の血脈というのは、そこにしかないからだ。と言う事です。

 ここでいう「血脈」とは、自身の正統性を云うための言葉であって、これは日蓮自身が自分の説くところの教えは釈迦の教えと寸分違わぬものだという事です。そして釈迦の言いたかったのは、そういう事なのだという事でしょう。
 それは「常に死を意識して、そこから生きていきなさい」という事、そしてその為にも御題目を唱えていきなさいと言うのです。日蓮がいう御題目とは、法華経の肝心(一番大事な事)であり、全ての仏の心だというので、悟りとか成仏とか言っても、生きているこの瞬間を常に鮮烈に意識をして生きる中にはしか、その様な事は無いという事なのかもしれません。

 何故今回、こんな記事を書いたかと言えば、毎朝のる通勤電車の中にあった広告で、イェール大学教授のシェリー・ケーガン氏の講義をまとめた「DEATHー死とは何か」という本を、ついつい衝動買いしてしまい、Kindleで読み始めたのですが、乗っけから引き込まれてしまい、読み進めています。

 これは前にも少し書いたかもしれませんが、現代文明とは人が誕生する事、そして人が亡くなる事という、実に人生にとって大事な節目を「病院」というところに閉じ込め、多くの人はこの様な誰にでもある人生のイベントを意識せずに、毎日を過ごしています。

 特に「死」というイベントは、人生の総決算であり、そこから先には自身が生きてきた証で持っていけるモノは一切ありません。お金や地位や名誉、人間関係、あと言えば家族との関係も、要はこの現実世界に産まれ出て、自分自身が積み上げ、持つことの出来たものは全てチャラになってしまうのです。ましてや自分自身を感じている今の体さえ荼毘に付されてしまうのです。

 唯一持っていけるのは、自分の心とそこに持ち得た「思い出」だけなのかもしれません。

 この様な人生を、本当に自分自身が有意義に感じれる様に生きて行くには、やはり「臨終正念ー臨終の時は正に今」という感覚を、時にはもって思索をする事だと考えています。

 この本はせっかく買ったのだから、これから読んで行きますが、読んで感じたことは、このブログに逐次書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。



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