自燈明・法燈明の考察

人間革命や境涯革命は下らない

 私はプロフにも書いていたと思うけど、某巨大宗教団体を長年信じてきました。でも最近になり思うのが、この宗教団体、まあ有り体に言えば創価学会なんですが、とても残念な感じを覚えています。
 まあ残念に思うから活動も止めて、単己としてやっているんですが、今回は何が残念なのかについて書いてみます。

 一番残念なのは、病人が結構多いということですね、これは活動家と言われる人達の中にですが。あと家族関係が破綻している人も、結構目に付きます。

 ガンが見つかった人、家の中で大怪我するひと、家庭不和を増長させる人、メンタル的な病を抱えてしまう人、障害者となってしまう人等など。結構目に付きます。まあ世の中、病気もあり家庭不和もあり、リストラあり事故あり、要は人間とは生きていれば様々な事があるわけです。これは当たり前の事で、特筆そこをもってどうこう言うことはありません。

 でも創価学会は違いますよね。
 「人間革命」とか「境涯革命」なんて言葉を言い、学会活動に取り組む事で、近年では公明党の選挙活動やれば幸せになれるとか、三世(過去・現在・未来)に渡り、絶対的な幸福境涯を築く事が出来るなんて言っているではありませんか。しかし私なんか振り返って見てみたら、学会活動やって頑張っていた人間で、そんな事になっている人はあまり居なかったですね。有り体に言えば世間一般と何ら変わることないというのが実情では無いでしょうか。いや、むしろ無理な組織活動が災いして、家族が破綻したり、仕事がうまく行かなかったりする人も居るくらいです。

 創価学会では何かと「境涯」という言葉を使います。生活で苦しむ、仕事で苦しむ。そんな人達に「境涯革命しよう!」なんて言いますが、体よく言えば功徳と呼ぶご利益をぶら下げるわけですよ。そして学会活動に走らせるわけですが、それをやると活動した幾人かは問題なんかを解決出来たり、乗り越えたりするわけです。すると「信心の功徳だ」なんてやるわけで、その本人も「創価学会のおかげ」とか「池田先生のおかげ」なんて信じてしまい、組織に対する依存度を強めてしまう事になってしまいます。

 それでも昔はそんな功徳の話を前面には出してなかったんですけどね。近年、特にこういう風潮が強くなっている感じもした事が、私が活動をやめるキッカケの一つなんですよね。

 そもそも「人間革命」なんてありませんよ。

 日蓮の教えを信じて、ある日突然に自分自身の心が変わるとか、そんな事なんてあるわけないでしょう。革命とは「ひっくり返す」という意味合いを持ってますが、自分の持ってる心や性質が信仰でひっくり返って変わるなんて事あるわけないのです。

 人の心の形とは「山」みたいなものです。ある方角から見たら峻厳に見える山でも、ある方向からみれば、なだらかに見える事がある様に、見方や立ち位置が変われば見え方が変わるだけで、元々の形は変わりません。それと同じ様に人生で感じる事も時と状況によって変わるものですが、本質的な処は変わりません。

 大事な事は「革命」と言って変えることではなく、まずは理解する事なんですよ。日蓮が文字曼荼羅の事を「如来滅後後五百歳始観心本尊」と呼び、観心という事が大事だというのも、そういう事ではありませんかね。

 あと「境涯革命」の先に「三世永遠の幸福境涯の確立」なんて事を言って、如何にもご利益得る事が大事なように組織内で指導してますが、幸福だとか不幸だとか、安穏だとか苦難なんていうのは、人生にとっては調味料の様なものでしょう。

 大事な事は、自分の人生を理解する事で、この人生をなんの為に生まれてきて、なんの為に生きるのか。そこに重点を置かなくて一体どうするというのでしょうか。

 人間革命も境涯革命も、ましてや三世永遠の幸福境涯なんかも、所詮はまやかしで、法華経の中にある「化城」の様なものなのです。しかし今の創価学会は、その化城をあたかも目的と誤解させ、本来の大事な事を蔑ろにしているとしか、私には見えませんね。

 そんな組織の指導通りの活動に、一体何の意味があるのか解りません。

 だから私は単己として、そこを考えて行こうと思っているのです。



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