自燈明・法燈明の考察

人生とは何かと不如意なもの

 最近、ふと思う事なんですが、人生とは実に不如意なものかもしれませんね。

 「不如意」とは「意のままにならない」という事で、自分で考えていた様な生き方をする事が難しいという意味で言っています。

 私は若い頃、イラストレーターになりたかったのです。これは紛れもない事実として。だから専門学校にも行きましたし、デザイン事務所にも若い時分、一時期ですが勤務をしていました。しかし今はというと、IT業界でエンジニアとして働き、そこで家族四人を何とか養ってきていて、間もなく定年が見えてくる歳になってしまいました。

 人生は不如意なものだというのは、このイラストレーターを諦めざるを得ない状況になった時に、身に染みて実感しました。でもそんな中で「後悔する生き方だけは避けよう」と自分自身で決めて、ここまで生きてきました。

 自分に子供が出来た時には、自分が生きてきた事を笑いながら話せる様な生き方をしよう。

 そんな事を決めてここまで生きてきたのです。

 おかげ様で子供たちにいは、今まで生きてきた事を「笑い話」として話す事が出来るようにもなり、たまに今の仕事場で若い社員にも、私の仕事経験を話すと、笑い話として話す事が出来ています。

 まあ色んな事をしてきました。

 知人と一緒に小さな会社の経営に携わった事もありましたし、社命で新規事業を立ち上げろと言われ、徒手空拳で飛び込み営業に明け暮れた事もありました。でも事業が黒字化する前に、修復困難な赤字状態で撤退、結果、当時の社内では本当に針の筵に座る日々を過ごした事もありました。

 あと創価学会という宗教団体で四半世紀にわたり活動に明け暮れて来た事もありましたし、そこではそれなりに責任者をしてきましたが、今ではこれらは「黒歴史化」しています。

 ここでは書けない恥ずかしい想いや、苦々しく情けない想いも沢山経験してきました。まあ時には楽しい事もありましたが、どちらかというと、不如意な出来事の方が多かったのかもしれません。

 でも不如意に感じた出来事の方が、結果として自分の中では得難い経験を得る機会にもなっていましたし、それによって新たに得るモノも多くあったと思います。

 恐らくこれは、最終的に「自分自身から逃げなかった」という事で、得られたのかもしれません。

 良く一部のニューエイジ思想では「人生は学ぶために生まれてきた」なんて言葉がありますが、私はこの人生は「経験を得る為に生まれてきた」という方が近い様に最近では思えています。

 私は鎌倉時代の日蓮を信奉していましたので、そこの観点から一言。

「南無妙法蓮華経」というのは、妙法蓮華経に帰依するという言葉です。妙法蓮華経とは、突き詰めて言えば自分自身の心の本質は「仏」であり、これは自分だけではなく、他者も、この世界に生きとし生きる全ての存在も、自分の心の中にある「仏」がこの世界に出現した存在だと明かしている経典です。

 そこには「自分だ」とか「他人だ」というものはありません。心の本質では、ともに同じ存在だと言うのです。

 またそればかりではありません。「仏」とは過去から未来に向けての出来事や、森羅万象の出来事の本質を理解している存在です。つまり私達は心の奥底の根源的には、自分自身に降りかかる様々な出来事、そしてその本質を理解しているというのです。ただ心というのは多重構造を持っているので、その事を自分で認識する事は困難なんだと。

 そんな妙法蓮華経を帰依するという言葉が、御題目であり「南無妙法蓮華経」という意味だと、私は捉えています。なにも繰り返し唱えて呪文の様な「呪い(まじない)の言葉」なんかでは無いのです。

 要は突き詰めて言えば、人生を生きている「自分自身を信じる事」というのが、このお題目の意味だと私は捉えています。

 今の世界には様々な不条理な出来事が溢れていて、そこに生きる一人ひとりも不如意である事を、日々実感しながら生きているのではないでしょうか。でもこの「人生とは何かと不如意なもの」という事を前提に、如何に自分自身の存在や生き方を肯定していけるのか。そこが今の時代を生きる私達には問われているのかもしれませんね。


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