相変わらずの新型コロナ禍ですが、大阪と東京での感染拡大が進んでます。この事で見えるのは日本の安全保障関係の認識の甘さですが、そもそも日本政府の安全保障に関する意識の低さというか、認識の甘さに問題があるので、新型コロナ禍は収束する事が出来ずにいる。これは単に政治家の質の低さ以前に、日本国民としての認識の無さも現れていると私は考えています。
ここ最近では、アメリカと中国の関係で緊張感も高まっていて、中国は南シナ海のフィリピンの排他的経済水域で、何やら怪しい動きをしています。南シナ海といえば、日本のシーレーンに大きく関係しているので、もう少しマスコミでも大きく取り上げるべきですし、本来なら日本としてどの様に振る舞っていくのか、議論をすべきなのですが、恐らく日本国内ではこの議論は出来ないでしょう。何故ならこれは軍事的な内容に絡む話題になりますし、そこは日本世論にとって、アキレス腱になってます。
新型コロナ禍と極東アジアに於ける中国の行動による緊張の高まりですが、いずれにしても「国として国民の安全を保障する」という問題が根っこにあり、私は同質な問題により国内の議論が出来ていないと考えています。では何故議論が出来ないのか。そこはやはり太平洋戦争以降に、日本は経済一辺倒で来てしまった事が原因ではないかと思うのです。
◆日本の幕末観
日本の近代史とは司馬遼太郎が書いた近代史であるという言葉があります。確かにそうかもしれませんが、それぞれの歴史にある事実を元に、少し考察してみます。
江戸時代は「鎖国」と言われ、日本は外国との交流を閉ざしていたと言いますが、これは少し正確さには欠けるというのが、近年になり言われ始めています。正確には「鎖国」てはなく、外交を江戸幕府が独占していたという事で、江戸幕府としてはその窓口を長崎の出島に絞って行っていたというのが、正確な表現なのかもしれません。
これは私も近代史を自分なりに振り返りをして判った事なのですが、幕末のペリー来航も、幕府はオランダ商館館長からの定期報告で事前に知っていて、当時の世界情勢もある程度は掌握をしていたようです。
外交権を幕府が独占状態にあると言うのは、形式的には今の国家である連邦国家に近い形態だと思いますが、幕末の日本とは幕府が諸藩(大名家)を抑えていた形であった事もあり、国家の形として近代国家とは言えないものでした。
私は歴史学者ではありませんので、大雑把に書いていきますが、ヨーロッパを中心に帝国覇権の時代というのが十九世紀の世界であり、東アジアに向けて欧米帝国列強は領土の拡大を進めてきました。当時のヨーロッパは、イギリスで起きた産業革命により、急速に科学技術を進歩させて来たので、その技術力の格差は大きく、当時の東アジアの各国は次々と欧米列強に飲み込まれて行きました。
日本の幕末の志士と言われる人達は、そんな東アジアの状況に危機感を持ったのは当たり前の事かもしれません。ただよく見てみると、当時の欧米列強が主に目を付けていたのはインドと中国であり、日本などはアメリカでは捕鯨基地を置く場所として、開国を求めた程度のもので、それほど力を入れて日本の占領統治等は考えてなかったのではないでしょうか。
とは言え、薩摩や長州の若い志士達は、留学先の上海の惨状(欧米列強に支配されるという姿)を見て、大きな危機感を持ったのは想像するに容易な事です。これでは日本も飲み込まれる、はやく近代国家としての日本に変わらなければいけない。この欧米列強への脅威というのは当然、幕府も感じていた事でしょう。しかし幕府の観点は、やはり徳川家を中心としての近代化を考えていたので、そこが大きな相違点ではなかったのではないかと思うのです。
そして薩長を中心として倒幕運動が起き、そこから戊辰戦争へと突入して行きました。私が学生の頃に学んだのは、比較的争いもなく日本は近代国家へと移行したと言われていました。しかし実態は、やはり血で血を洗う内戦であったことには変わりなく、ただ他の国と違うのは、やはり日本にあった天皇を中心とした国の形と、それによる江戸幕府の徳川家の敗退があったのでは無いでしょうか。
通常、戦争といえば兵力により勝敗は決するものです。新政府樹立を宣言した時点での兵力差は、圧倒的に江戸幕府が優勢であったにも関わらす、何故、薩長を中心とした明治新政府が勝つことが出来たのかを見てみると、そこには「官軍」と「賊軍(朝敵)」という、天皇を中心にした日本独特の社会文化が関係していたように思うのです。
結果として、この戊辰戦争は短期で収束し、先にも述べましたが、欧米列強もそれほど本腰入れずに来たこともあり、日本は近代国家として変革する機会を得る事が出来たのでは無いでしょうか。
(続く)