今日はもう少し書きたい事があるので、記事を更新します。
さて皆さんは、この写真を見てどの様に思いますか?
「日米同盟の絆の深さ」という事を感じますか?
私には、日本がより「アメリカのポチ」とも言うべき立場を自ら強化したという風にしか感じないのです。
今の日本では、真っ当な国防論議が出来ません。少しでも語ると「お前は日本が軍国主義化しても良いのか」とか「そんな軍国主義になる事を賛成するなら、まずはお前が戦場へ行け」という様な、あまりにも安直な意見ばかりが出て来てしまいます。また反軍事的な事を言えば「だったらC国から責められても良いのか!」「あまりにも現実を知らなすぎる!」という事を言われます。
私は何も戦争賛成ではありません。できれば日本は平和であってほしいと願っています。誰が喜んで戦争したいと考えているのか。まあ、自民党内の一部の「勇ましい言動する国会議員」なんかは、如何にも軍事的に勇まし気な言動を乱発していますが、私はその様な言動には、一つも共感を持てないのです。
今の国際社会の中では、自分達の「国家」を守るために、やはり軍というのは必要です。何せ国際社会というのは、未だに「国家間の戦争」を容認している社会であり、いまだ軍事的な力を背景にしている社会である事を、今回のロシアによるウクライナ侵攻や、南沙諸島での中国の強引ともいえる領土拡張政策に見て取れるのです。
私は本当に日本が戦争に巻き込まれる事を防ぎたいのであれば、過去に日本は何故、あのような愚かな戦争をしてしまったのか、しっかりと見据える必要があると思うのです。その過去の総括を行い、その上で「二度と同じ過ちを繰り返さない為には、どの様に行動したら良いのか」をしっかりと日本人は考える必要があると考えています。
今の日本は「憲法九条を安眠枕にした平和主義」か「懐古的かつ情緒的な国防議論」の何れかに偏っていると、私は常に感じるのです。私はその何れも考え方でも、この先に日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐことは出来ないと考えています。何故ならこの2つの考え方をする人達の中では、先の太平洋戦争に日本が雪崩込んでいった原因について正確に理解出来ていません。
戦争というのは外交の先にあるものです。だから戦争を遂行する軍隊というのは、絶対的に政府のコントロール下で動かなければなりません。それが「シビリアン・コントロール」というものです。しかし明治維新から戦前の日本は、このシビリアン・コントロールが効かない法律の仕組みになっていました。
いわゆる「統帥権」というやつです。
大日本帝国憲法では、帝国陸海軍について以下の様に定義していました。
「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
これにより、帝国陸海軍を指揮統率する権限は、天皇にあると言う事になっており、軍部は時の内閣の統制を受けずに行動する事が出来ました。軍事に関する事については、軍部が決める事であり、内閣如きが口出す事では無い。いわゆる「天皇陛下の軍隊」という事になっていたのです。これが「統帥権」の問題と言われている事です。
要はシビリアン・コントロールが効かない軍事組織であり、陸海軍大臣を軍部が出さなければ総理大臣は組閣すら出来ないという状況でした。
だから太平洋戦争を外交で避けようと内閣がしても、軍部の暴走を許してしまい戦争を止められないと言う、法律的な問題を根源的に抱えていた結果、あの様な無様な戦争を許してしまったのです。また天皇が統帥権を持っていたとしても、当時の天皇とは「君臨するとも統治せず」という、立憲君主的な位置づけに天皇があったので、天皇すら軍部の暴走を止められませんでした。
戦争を止められない、避ける事が出来ない。先の戦争で日本が負けた要因とは、それ以外にも多くの事がありましたが、一番の根源的な問題にはこういった大日本帝国憲法の法律的な不備があった事は否めません。
まずはこう言った根源的な原因を多くの国民が理解する必要があるのですが、昨今の国防(防衛)論議の中で、戦争の可否を論じる議論の中では、こういった話題は全く出て来ていない状況で、やれ「軍隊を持つと戦争が出来る国になる」とか「軍隊を持たないと他国から責められた時に、国民を守れない」という表層的な議論ばかりに終始していやしませんか?
そこに私は表層的な議論に、今の日本社会は終始している事を感じています。
さて、こういった法律にある問題ですが、今の日本国憲法には問題は無いかと言うと、私は似たような事が現行憲法にも存在すると思うのです。それは日本国憲法の前文の以下の箇所にあります。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
ここで日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」国の安全を保持する事を述べています。
確かに世界の何れの国であっても、戦争を好む国民は居ません。多くは確かに平和を求め、そこでのささやかな幸せを人々は求めています。しかし戦争というのは国家が起こす行為で、そこでは国家間の利害がぶつかる事により発生しています。そこにはそれぞれの国民の持つ「ささやかな幸せ」とは別の理論が蠢いているのです。
仏教では人類の社会とは「五陰世間(一人の世界)」と「衆生世間(社会)」の構造から成り立つ事を説いていますが、戦争を起こすのは「衆生世間(社会)」のレベルで発生してしまうのです。
それを全く理解もせずに「諸国民の公正と信義」に依存して、国の安全を保持するという事は、現実的にはあり得ない話なのですが、今の日本人ではこういった現実を理解せずに、軍隊を持つと「戦争が起きる」とか、軍隊を持たないと「国が責められ亡ぶ」という議論に終始している状態です。
そしてこの「極めて幻想的」とも言える前提に立って、憲法九条では「戦争放棄」を謳っているのです。
これは問題だとは思いませんか?
今の日本人社会が現実的な事に立脚して、国防に関する議論が出来ない根本には、こういった日本国憲法の幻想的な思想が影響しているのではないでしょうか。
太平洋戦争に負けた日本は「国体」を守るため、自主独立を守る役割である「軍隊」を放棄し、如何なる理由であっても国として戦う事を放棄する事で、戦争責任を追及する連合国から「国体」を守る事が出来ました。しかしその結果、七十年経った現在の日本では、戦争を含みますが、国民の生活を守る「国家安全保障」という事すら、まともに考えられない国民が多くなり、その国民から選出された政治家も「国家安全保障」という概念をまともに持ち合わせていません。
この状況では、防衛費増額だとか、日米同盟の連携の強化なんて事を幾ら言ったとしても、いずれもアメリカ軍の下請けとして自衛隊を差し出す事と、この先、日本国内の事情に関係なくアメリカに振り回されてしまう事になるのではないでしょうか。
そういう事を考えると、先の岸田総理がアメリカのバイデン大統領から肩を抱かれ、如何にも「ご満悦な表情」の写真に、私はとても大きな不安感を抱いてしまうのです。