自燈明・法燈明の考察

仏とは生命なのか①

 創価学会の第二代戸田城聖会長は、自身の獄中の悟達として「仏とは生命なんだ」と言う事で、大白蓮華創刊号で「生命論」を書いたと言います。確かに既成仏教では生命論という言葉で仏というものを論じた事はなく、そういう意味では当時の中では俊逸な観点による論文であったと思います。

 私自身、若い頃には「なるほどなあ〜」と感心して拝読した思い出はありますが、それから三十年ほど経過して、教義的な事、またその他、世の中にある様々な論説を学んできましたので、そこから再度、この戸田会長の書いた「生命論」というものを見直してみたいと思いました。




 大白蓮華に掲載された文は、正式には「生命の本質論」という題名です。初めに断って置きますが、私がここでこの論について解釈しても、それはあくまでも私個人の勝手な解釈です。これについて、この私の解釈が絶対的に正しいとか、ここが違うから戸田会長の論は間違えているという様な、所謂、創価学会に古来からある破折論文の様なものではありません。私の考えと、戸田会長の考え方は、時代も異なれば人生の来し方も異なりますので、当然解釈も異なるものであり、そこはご理解頂きたいと思います。

◆生命について
 創価学会ではよく「生命」と言いますが、それでは生命とは何を指すのでしょうか。「生命」とは科学用語だから、仏とは生命だという事は仏法を歪(いびつ)にするという意見もあります。しかしそういう事であれば、仏教議論を仏教用語でしか説明してはいけないと言う事にもなり、結果として教義の展開をスポイルしてしまうでしょう。大事な事は言葉の指す意味であり、その言葉の分類ではありません。

 法華経方便品第二にある「十如是」では「諸法実相」という事が述べられています。諸法とは諸々の現象を指し、実相とはその現象を起こす実体を言います。そこでは「如是性・如是相・如是体」が示されていました。如是性とは性格や性質とも言われており、これは仏の三身論で言う処の法身にあたります。如是相とは外目や肉体を指し、三身論では応身。そして如是体とは性質と外目が合わさり、実際の働きとして見えるもので、三身では報身となります。

 恐らく戸田会長の言う「生命」というのは、この三身論で示されるものを指しているのであり、それが実相の本体を指し示すのではないかと思います。そしてこの三身論で示される事を「生命」と呼び、その本質について論じたのが、この「生命の本質論」なのではないでしょうか。

◆三世に渡る生命
 この論文で戸田会長はまず「三世の生命」という事について述べています。この三世の生命観を示すのに、ここでは法華経の化城喩品と如来寿量品の2つを取り上げ、そこで釈尊の弟子達が釈尊より過去に教化を受け、その結果として未来の成仏を約束された事を示して語っています。この事から戸田会長は「およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世および来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。」と述べています。しかしこの言葉は正確ではなく、釈尊一代の仏教ではなく、こういった三世に渡る事を説いているのは大乗仏教であり、原始仏教ではここでいう様な三世の生命観というのは存在しません。その事から正確には大乗仏教の前提として、という事になります。

 またその後に「さらに日蓮大聖人にあっても、三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ釈尊よりも大聖人は生命の存在を、より深く、より本源的に考えられているのである。」と述べて、開目抄や撰時抄の一説を引用していますが、それによって日蓮が大乗仏教より何が「より深く、より本源的に」という事については論じていません。

 また続いて「かかる類文(るいもん)はあまりにも繁多(はんた)であり、三世の生命なしには仏法はとうてい考えられないのである。これこそ生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。」とありますが、実はこの三世(過去
現在・未来)に渡り生命が存続するという事は、仏法に限らず既に釈尊在世の婆羅門教でも論じられていた事は日蓮も示しています。

「其の見の深きこと巧みなるさま儒家にはにるべくもなし、或は過去二生三生乃至七生八万劫を照見し又兼て未来八万劫をしる、其の所説の法門の極理或は因中有果或は因中無果或は因中亦有果亦無果等云云、此れ外道の極理なり
(開目抄上)

 ここで日蓮は婆羅門教でも既に過去世から未来世まで既に論じており、しかもそこに因果の法則について語られている事を述べているのです。

 戸田会長は「およそ科学は、因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。」と述べ、「また、その間の関連いかん。同じ人間にも、生まれつきのバカと利口、美人と不美人、病身と健康体等の差があり、いくら努力しても貧乏である者もおれば、また、貪欲や嫉妬に悩む者、悩まされる者などを、科学や社会制度では、どうすることもできないであろう。かかる現実の差別には、かならず、その原因があるはずであり、その原因の根本的な探究なしに、解決されるわけがないのである。」と、その三世の因果律について滔々と述べていますが、この観点のままでは仏法の三世の生命観と言っても、所詮は釈尊在世の婆羅門の教えと何ら変わらない事を述べているのに過ぎないと思うのです。

◆三世の生命について考えるべき事
 三世の生命については、戸田会長の時代から現代においても科学的に証明されている事ではありません。ただ近年になり欧米を中心に「NDE(臨死体験学)」という事の研究が進む中で、臨死体験者や前世を語る人達の証言などから朧気に語られている事です。

 戸田会長は婆羅門の教えの延長のまま、生命は三世に渡り続き、そこには因果の法則があると語っています。過去から未来に渡り、三世の生命は存在し、その人生は今の人生ではなく、過去の業因(行い)の結果として今の人生があると述べ、そのサイクルは未来永劫続くと述べています。日蓮も確かに以下の様に御書の中で述べている部分もあります。

「心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云、不軽品に云く「其の罪畢已」等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり」
(開目抄)

 ただこの様な業因業果論の内容を、三世の生命という話の上に乗せた事で、結果としてその婆羅門の教え(現在、それはヒンズー教に引き継がれています)によって、現代でもインドでは「カースト制度」という、宗教を下地とした差別を生み出しているという現実を考えなければならないでしょう。

 確かに大乗仏教に於いては、過去から未来に渡る生命の輪廻転生を説いています。しかしこの因果律については本来、大乗仏教では否定する立場をとっていると私は考えています。その一番の根拠となるのは「久遠実成の釈尊」という事であり、ここでは人は本源的に仏であるという事を明かしています。そして本源的に仏である人間が、実は人生において苦を感受する事もあるというのであって、過去の業因に縛られているから人生に苦を受けるという事では無い、と言っているのではないでしょうか。だから日蓮も門下の四条金吾に以下の言葉を語ったのでしょう。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」
(四条金吾殿御返事)

 戸田会長の教学基礎は、どこまで言っても大石寺の賢樹院日寛師の教学です。その上で語っているのが「生命の本質論」であり、けして目新しい内容では無いというのが、私の率直な感想です。
 確かに大石寺の信仰から始まり、体験偏重で進んで来たのは解ります。しかし戦後に法華経講義を行い、創価学会を再立ち上げしたとありますが、法華経を読むのであれば、もう少し掘り下げられても良かったのではないでしょうか。

 この事については、続けます。

(続く)

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