「正法」と言う言葉は果たして存在するのか。私は創価学会の活動を止めてからこの事を考えてきたのですが、突き詰めていえば存在しないのではないかと最近になって考えるようになりました。
仏教で法と言えば経典ですが、ご存知のように経典とは文字であり、文字で書かれた内容というのは、読み手の解釈で様々な教えとなってしまいます。つまり文字だけでは完全に伝達できるものは無いし、そこには読み手の解釈が入ります。正法というのはその法(経典)を解釈した人の中にしか無いし、経典と言っても、それは単に情報の集合でしかないのです。
当たり前の事ですが、同じ情報を得たとして、そこにどの様な解釈を与えるのか、それは一人ひとりの内面にしかありません。つまるところ、法を信じたとしてその信じた人が、どの様に解釈して自分自身の人生に活かしていけるかが大事であり、そこに焦点を向けるべきなのです。
「私の所属している教団は正しい法を護持している」
そんな事を云うのであれば、その前に自分自身の生活の上にその法をどの様に活用しているのか、その結果、周囲にどの様にそれが良い影響を与えているのかを考えるべきなのです。教えが高いからそれで自分を高みに置き、他人を蔑み、攻撃するというのは大きな間違いであると理解すべきでしょう。
そのような事をする前に、その法で自分自身、人生への理解がどれだけ深まったのか、そこに重点を置くべきではありませんか?
さて今日の本題です。
開目抄では大小・権実相対については、次の様に語っています。
「但し仏教に入て五十余年の経経八万法蔵を勘たるに小乗あり大乗あり権経あり実経あり顕教密教�語�語実語妄語正見邪見等の種種の差別あり、但し法華経計り教主釈尊の正言なり三世十方の諸仏の真言なり、」
②大小相対/権実相対
これは大乗教と小乗教を比較相対する事で、大乗教が優れているという事を大小相対、そして大乗教の中でも権経(法華経以外)と実経(法華経)を相対して法華経が優れている事を権実相対と言います。天台大師は釈迦一代の説法を「五時八教」として分類していますが、この中の五時という分類から、この2つの相対について見ていきます。
1.華厳時
釈尊が開悟した直後の教え。対象は普賢菩薩に対して説かれたもので、この時に説かれた教えは華厳経と言われています。その内容はとても高度であり、二乗の人達には理解されなかったと言われています。
2.阿含時
釈尊が華厳の教えを説きおえ、波羅奈国の鹿野苑に赴いて、阿若橋陣如等の五比丘にたいして説法し、その後広くインドの一六大国に、一二年間にわたり遊化します。この、30歳から42歳までの教えをいいます。華厳経は高度な教えで、それを理解できない人達のために初歩的な法を説いたと言われています。
3.方等時
その後、釈尊が42歳から50歳までの8年(16年という説もあります)にわたって説かれた教えをいいます。本来は大乗経の総称で大方等経といいます。「方」は広い「等」は等しいの意味で、五時判においては、『華厳経』・『般若経』・『法華経』・『涅槃経』以外の『維摩経』・『思益経』・『金光明経』などの大乗経典を総称していいます。この方等部は阿含時で説かれた灰身滅智等への執着を断ち切るための教えだと言われています。
4.般若時
その後、霊鷲山や白鷺地で釈尊が50歳から72歳までの22年(14年という説もあります)にわたって説かれた教えをいいます。摩呵般若・光讃般若・勝天王般若・金剛般若・仁王護国般若等の諸種の『般若経』が属しています。六波羅蜜のうち般若(智慧)波羅蜜を主点とした教えを説き、一切の諸法は空(一切空)であるとします。ここでは方等部で大乗と小乗を対立して教えた事について、実はすべてが大乗を説くためであったとしています。
5.法華涅槃時
釈尊が72歳から80歳までの8年に渡った時期をいい、摩竭陀国の霊鷲山、宝塔品の虚空会において『法華経』を説かれ、さらに、涅槃の直前の一日一夜、沙羅林において『涅槃経』を説かれました。これを「法華涅槃時」といいます。前番の『法華経』が八年間、後番の『涅槃経』は釈尊が涅槃に入られる一日の説法をいいます。
以上が五時の概略ですが、このうちで阿含は小乗教、それ以外が大乗教であり、小乗教は理解できない人向けの初門の教えであり、それと大乗教を比較しれば大乗教が優れ(大小相対)、大乗教にも権経と実経というものがありますが、華厳・方等・般若時に説かれた教えというのも、すべては法華経へ導くためのものであった事から法華経が優れている(権実相対)という事となっています。
ただこの五時という整理は、天台大師が釈迦の生涯にわたる説法(経典)を分類・整理し、理解し易くするための理論であり、実際に釈迦がこの様に順序よく説法したという事でも無いようです。またそもそも大乗経典の成立も、今では釈迦滅後五百年頃であると判明している事、また釈迦滅後に釈迦の教団が分派して部派仏教として展開され、その部派仏教の中から大乗経典の成立の動きもあったと言われているので、この天台大師の説をそのまま歴史的な事実として理解すると、様々な誤解も生まれてしまいます。
思うに釈迦の説いた仏教というのは、分派しながらそれぞれに研究され、解釈が加えられる中で、より広く深い教えになっていったという事、そしてその中で天台大師は大乗経典の法華経こそが、その仏教の流れの中で成立した経典の最高峰であるという事を理論建てした。その様に理解する方が良いのかもしれません。
(続く)