自燈明・法燈明の考察

正法について考えた事①

 想像通りだったのですが、日々酷暑が続き、エアコン無しでは生きていけない様な感じの毎日です。何でも熱中症で救急搬送される急患のうち、大半が「エアコンが無い」もしくは「エアコンがあるけど利用していない」という家から運ばれてくるという事でした。インド人も故郷のインドより、今の東京の方が暑いという話もありましたが、本当にキッツイ日々が続きます。

 皆さんも熱中症には気を付けて。あと新型コロナウィルスにも気を付けて、この夏を乗り切りれる様に、頑張ってください。

 さて今日の本題です。

 いまの創価学会は「日蓮仏法」というものを信奉していると言いますが、実際には池田哲学という、私から言わせれば古今東西の「偉人と言われる人の綺麗事の箴言」と「日蓮仏法」をミックスしたものを信じていると言っても良いでしょう。ちなみに今から三十年近く前、第二次宗門問題当時の創価学会が信奉していたのは大石寺の教学であり、それは日寛師の教学でした。



 だから法華講や顕正会との「対論」という、勝ち負けを見せつける為の論争は、全てが日寛師の教学を基準に行っていたのです。当時の私は創価班広宣部で対論をしていましたが、この日寛師の教学こそ日蓮仏法であり、これこそが正しい教だと信じ切っていたのです。

 しかし創価学会の活動を止めて、自分が信じていた教学を客観的に自分なりに見直してみると、実は日寛師の教学というのも中古天台恵心流の亜流という様な内容であり、そもそも大石寺や日興門流の教学は、昔から日寛師の教学では無かった事も理解できました。

 「正しい教えとは、何なのか」

 それから十年近く、そんな事を考えてきたのですが、結論として「正しい教え」というものはなく、ある見方により「宗教の教えの浅深高低」はあるかもしれませんが、それは飽くまでの一つの観点からの話でしかないのです。

 そんな事を知ってしまうと、ネットの中で例えば今の創価学会の活動家が自信満々に、自分の信じている創価学会の教え(主張している事)こそ「絶対正義」だと信じて、他者を扱き下ろしたりする行為なんかも、ある意味で滑稽な姿に見えてしまいます。

◆教相判釈(五重の相対)について
 創価学会や大石寺で自分達の「教え」こそ「唯一正しい教え」だという論拠に「五重の相対」というものがあります。
 この概要は日蓮の御書で「開目抄」に述べられていますが、日蓮は教相判釈(教えを整理して高低浅深を立て分ける事)として五重(五段階)の相対(対比)を用いており、この内容は天台大師智顗の五時八教を引用した理論で、名称として「五重の相対」という名前を付けたのは後世の日蓮門下であったようです。(日蓮の御書には五重の相対という名称は書かれていない)

 ではこの「正しい教えを導き出す」という、この理論について、ここで少し振り返りをしてみましょう。

①内外相対
 まず内外相対について、開目抄では次の記述から始まっています。

 「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。」

 ここで儒教と外道、そして内道としての仏法を比較しています。
 儒教では礼節等を教えているが、過去や未来の事を知らないので、そんな教えでは親や主君、師匠を救う事が出来ないので、結果としては恩知らずとなってしまうと述べ、開目抄の中では儒教の孔子の言葉で仏教を指向している言葉があった事から、この儒教というのは仏法の初門(導入分)として意味があったと位置づけしています。

 そして外道としてインドのバラモン教を取り上げ、このバラモン教では人の過去・現在・未来の三世の観点を持っていたと言い、精神的な側面も深く説いていると言いますが、結果としてこの教えでは輪廻を離れる事もできず、二生・三生と転生を繰り返す中で悪道に堕ちていくと述べ、外道を究めた仙人であっても三惑を断じていない凡夫であるからだと言うのです。ただしこのバラモン教に於いても未来に仏陀が誕生するという事を説いているので、儒教同様に仏法の初門であったと位置づけをしています。

 これら二つと比較して仏法とは、三惑を断じた仏が説いた教えであり、悟りを開いた釈迦が説いた教えである事から、生死の因果を極めつくした真実の教えであると述べ、儒教やバラモン教よりも優れた教えであると開目抄では述べているのです。

 開目抄ではこの様に「内外相対」について述べています。なるほど当時の仏教僧の立場から言えば、この通りだったのでしょう。しかしこれで仏法こそが最も優れているという事を証明する事は、現代に於いては中々厳しい事かなと、私は感じました。

 ここで日蓮が論じているのは、全てが東洋思想であり、儒教については宗教という事ではなく、人としての在り方を、古代中国の考え方を元に語った教えですし、バラモン教も外道と言っていますが、これも多神教文化圏であるインドに昔からあった宗教です。ちなみに現代ではこのバラモン教の流れを受けたヒンドゥ教が広くインドで信仰されています。

 いま世界に目を向ければ、ヤソ教と言われる一神教の「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」があります。この三宗教では、ともに同じ「神」を絶対神と立てていて、キリスト教に至っては七世紀の唐代に中国に伝播していたという記録がありますが、それほど大きな教団ともなっていなかったので、鎌倉時代の日蓮の預かり知らぬ処であったと思います。

 創価学会や日蓮正宗では、このヤソ教も仏教以外の宗教なので「外道」という扱いになると言いますが、当然の事ながら鎌倉時代の日蓮はこの宗教について論じていません。また今の人類社会の中では、キリスト教と共にイスラム教も巨大の宗教ですが、正直、もし宗教の高低浅深を語るのであれば、例えばキリスト教やイスラム教の教えについても、しっかりと分析の後、批判をする必要があります。しかし正直そこまで深い議論を、日蓮正宗や創価学会では、為されていないでしょう。

 「処女懐胎なんて非科学的な事を説いているから低俗な教え」
 「肝心のイエスキリストでさえ、嘆き処刑されて死んでいる」
 「キリストの復活なんて、科学的にあり得ない事を信じている宗教」

 私は若い時、創価学会の中でキリスト教に対する批判を先輩から聞いていましたが、どれも上記の様な内容だけで、では聖書とはいかなるものか、聖書と旧約聖書の違いは?神智学というのがあるが、それは何を述べているのか、イスラム教では何を語っているのか等、誰もその内容を知っている人はいませんでした。

 正当な認識なくして評価は出来ない。評価できないものを批判は出来ない。
 例えば先の批判にしても、仏教の中でも同様な伝説というのは存在します。

 「釈迦が生まれて七歩歩いて”天上天下・唯我独尊”と言った」
 「松葉ケ谷の法難で、日蓮の手を白猿が引いて逃げたので難を逃れた」
 「日蓮が首の座で光物が現れて、難を逃れた」

 単純に外道として仏法との優劣を語るのであれば、しっかりとした論拠と、真っ当な批判を元に行われるべきであり、それが為されていないのであれば、単純に「内外相対」という言葉で、仏法とそれ以外の宗教を比較して、一方を批判できるものではないのです。

 そういう意味で「五重の相対」という教相判釈は、既に現在では適用できないと私は思うのです。

(続く)


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