自燈明・法燈明の考察

アンチ創価と屹立について

 まあ、あんまり書いてみても致し方なしの事だとは思うのですが、やはり少し書いておきたいなと言うことがあって、今回記事を更新します。
 最近、仕事もそうですが趣味系でもハマっている事があって、ついついこちらの記事更新もお座なりにしていました。
 なにせ私の人生も、残り時間は二十年程と覚悟しているので、やはり極力やりたい事は、体力があって出来るうちにやっておきたいと思いまして、趣味系にも没頭し始めています。
 さて、本日Twitterで以下の方の発言を最近見て、「あれ?」と感じました。
 確かこの人はアンチ創価の人で、界隈ではそれなりに有名な人ですよね。そして「自活」と語らっては、結構活発に組織からスピンアウトした人達を集めて「自活座談会」なんて事もやっていた人ではありませんか。
 この人の過去の発言では、信濃町執行部を批判し、安保法制で公明党を結構批判していたはずなんですが、何かこれを見ていると「公明党支持」にきりかわっていませんか?
 何か「朝から晩まで批判してばかりのアンチ公明がいるが」なんて言葉をここで言っていますが、これってネット罵詈活がアンチ創価の公明党批判によく使うフレーズですが、この人は「宗旨替え」でもしたのでしょうか?
 とまあ、そんな大いなる違和感をこの発言には感じたりしました。
 でもまあ、政治信条については個々の人権として認められる事なので、そういう意味での「宗旨変え」という事であれば、別にここで非難しても致し方ない事だと思います。
 でもですね。公明党と創価学会の関係、またそこに深く横たわる「本当の問題」を認識していれば、こんな安易は「宗旨変え」なんて起きないと私は思うのですが、皆さんはいかが考えるのでしょうか。
 仮にも多くの人を巻き込んだ「自活座談会」なんてのを中心的に開催しているのだから、この件についてはしっかりと自らの意見を公表すべきだと思うのです。何故なら過去にツィッターや独自のホームページで「意見公開」をしていたんですからね。それならば「宗旨変え」した事についても、しっかりと多くの人が見える場所でパブコメとして発表すべきです。

 でも、やらないのでしょうね。
 思うにこのお方もそうですが、創価学会からスピンアウトした方々の中では、その後も「創価学会依存」「組織依存」が抜け切れていない姿というのは、これは過去から多く見受けられる事なのです。
 そしてその「依存姿勢」が消えないという事の根底には、私は「思索不足」というのが多くあると考えています。
 自分が信じて来た宗教団体である「創価学会」に対して、何がその根っこの問題であり、それが結果としてどの様な状況を生み出し社会に影響を与えてきたのか。いわゆる「思想的な根問い」という事を、徹底して行う人というのは、極僅かな人達しかいないのではないでしょうか。
 この「思索的な根問い」とは、行っていけばいくほど、それまでの自身の言動を否定する事にもなるし、生きて来た「生き方」をも否定する事に繋がっていきます。そしてこれは自分に精神的に大きな負担を強いる事にもなるのです。だから創価学会を「辞めた」とか「アンチになった」と言っても、実は表面的な行動のみを変えただけで、実はその「病巣」とも言える、自身の思想の根っこの問題には目を向けていない人が多く居る。私はその様に感じているのです。
 「池田先生とともに」「過去の麗しき創価学会を取り戻そう」「DAKKAN」
 こんな事を言っている人達の多くに、こういう事は共通しているのではありませんか?
 私は男子部時代、池田氏が語った「屹立した信仰者」という事について真剣に考え続けてきました。そしてその事を、創価学会の活動を離れ、組織から距離を置いた後でも自分なりに必死に思索を続けてきました。
 その中で私が辿り着いた事は、「自分自身を信じる」という事と「信じるに足る自分自身である」という2点です。そしてその為には社会の物事についても、単なるオウム返しの様な「刷り込み」ではなく、そこにはどんな問題があるのか、常に「根問い」という事がとても大事だと気づきました。
 要は「自分自身の言葉、例えそれが拙い事であっても、自分の言葉として語れる事」がとても大事であり。それを語れる事が「自分自身を信じる」に通じるし、「信じるに足る自分自身である」という事に近づけていける事なのです。
 この結論に辿り着くまで、自身の思索の中では、とても辛い事は沢山ありました。何故なら過去に自分が「正しい」と信じて行動してきた事を数多く否定しなければならない、反省しなければならないという事があったからです。
 しかしその行程を経る事で、社会で起きている事象について「自分の考え」を、以前よりは多少、「自分自身の言葉で語る」という事が出来る様になりました。
 では「アンチ創価」という事になった人達の中で、そういった「根問い」をどれだけの人がやっているのでしょうか。

 恐らくそういう事行わず、多くは「(間違えた)創価学会の幹部が語った指導に変わる事を教えて欲しい」とか「(間違えた)創価学会で教わって来た信仰に変わる事を教えて欲しい」という、あくまでも「(間違えた)創価学会」の代用品を探し、他者依存する人が多いのも、そいう「根問い」が不足しているからではないでしょうか。
 いやいや、、そもそも創価学会は設立当初からオカシイ組織であり、それが信じさせた教義もデタラメだったんです。そんな事は、創価学会の歴史や、日蓮正宗の宗史、教義の変遷を学ぶ事で、誰もが理解できる事なのです。今はネットが発達した世界なので、少し「ググれば」、そんな資料はゴマンと出てきます。でも「アンチ創価」になった人達は、そういう事を求めも考えもしていない人が多いのです。教義は難しい、自分で学ぶ事は不可能だ。

 そもそも創価学会という組織は、会員に行動することは教えても、思索する事の重要性は一切教えることはしていませんから、致し方無いことなのかもしれません。
 例えば公明党と創価学会が抱える問題とは、「信仰活動で政治活動する事」です。過去に内閣法制局長の答弁で言われた「宗教団体が政治活動をする事」が問題の本質ではないのです。

 民主政治とは議員の選択で「民意」を示す事です。そこには当然、国民の一人ひとりが政治的な意見や視点を持ち、そこで議員が不適切だと判れば落選させる事で「民意」を示す事なのです。
 しかし創価学会では無条件に公明党議員の全員当選を、信仰活動の目標に定め、そこに「功徳(御利益)」を結び付けているので、結果として「政治的な意見や視点」を、創価学会組織として封殺してしまいます。そんな支持者団体から選ばれる政党が幾ら「耳障り良い事」を言っていたとしても、安易にそれを当選させてはいけないのです。何故ならば、その議員の依って立つ地盤が既に異常なんですから。
 それを「朝から晩まで批判してばかりのアンチ公明がいるが」という、安直な言葉でしか語れない人は、所詮、思索が浅すぎると言わざるを得ないのではありませんか?
 しかしこの問題とは、何も創価学会に限られた事ではなく、宗教と人間という関係性に潜む問題であり、とても根っこが深い事とも言えます。しかし「屹立した信仰」には必ず「思索」が必要であり、そこなくして宗教という社会性を持った集団からの自立あり得ないことなのです。

 そんな事を、先のツイッターから考えましたが、皆さんは如何思いますか?


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