ようやく唱法華題目抄を読み終わりました。この御書を読んでの考察については、この先、このブログでも書いていきたいと思いますが、それに先立ち少し考えてみたい事があります。
皆さんは「狐憑き」とか「蛇憑き」という事を聞いた事ありますか?
私が男子部になりたての頃には、創価学会の地区とか支部では、そういった話を結構聞いた事があるのですが、この二十年ほどの間は、創価学会の組織の中で、あまり聞く事が無くなりました。
私が初めてこういった事を聞いたのは、実は創価学会ではなく、私の母親からでした。私の母親は若い頃、日蓮宗身延派の檀家の家で生まれた事もあり、日蓮宗寺院に「御奉公」と言って、通いでありましたが、寺院の雑用をしていた時期があったそうです。
その寺院は「大本山」となっているとある地方の寺院でしたが、在家信者の修行などで、寺の本堂で手持ち太鼓を持って長時間、御題目を唱えて居たり、寒行と言って、真冬の雪が吹きすさぶ中で、太鼓をたたきながら村の中を練り歩き、御題目を唱えるという事があったそうです。
そんな修行をしていると、中には「狐憑き」という様な事があったそうで、題目を唱えている中で正座中の人が飛びあがり、「ケーン・ケーン」と鳴きながら暴れ出すという事があったそうです。そうなると信徒たちがその人を取り押さえ、住職が手に数珠を持って「出ていけー!」という感じで、背中などを強く何度もたたいたりするそうです。
ほとんどの場合、それで正気に戻るそうですが、中には元に戻らなくなり、精神崩壊する人も居たらしく、本来、徳を積む修行をしに寺院に来たのに、帰る時には人事不詳でオカシクなり、家に引き取られていく人もいたそうです。
私がそれに近い事を見たのは、二十歳の頃、当時は東京都内の某所に就職していたのですが、近所に日蓮正宗寺院があったので、昼飯を食べた後、その寺院に立より唱題するというのが日課でした。
ある時、長椅子に座って御題目を唱えていると、最前列に座っていた初老の男性の体が大きく左右に揺れ動いているのが見えました。でも必死に御題目を唱えています。
そのうち、その初老の男性が椅子から前倒しに崩れ落ち、床を這いながら数珠を掛けた両手を頭の上に乗せ、まるで蛇の様に本堂の床をのたうっていました。しかし口では御題目を唱えており、周囲にいる人も、その人には無関心であるかの様に御題目を唱えていました。
当時の私は仕事に戻る関係上、その寺院を後にしたのですが、あの初老の男性はその後、どうなったんでしょうか。
また二十一歳で、私は本山担当創価班になりましたが、担当は正本堂内の班になりました。
担当日の一週間ほど前に、班長(他の区の主任部長)の家で「班会」というのがあって、担当日当日の事について、細かい打合せをするのですが、初めての着任の為に私がその班会に参加した時、正本堂内では偶に「狐憑き」とか「蛇憑き」というのが出るので、その対処方法についてレクチャーを受けました。
何でも常連(狐憑き)の「女子部」が居るらしく、もしその女子部が来た時には要注意だと教えられました。もし狐が憑いた様ならば、担当内で5人のメンバーで対応するとの事でした。一人は右腕、一人は左腕、一人は右足、一人は左足、あと一人は両肩を上から押さえつけるのだと言うのです。
「先輩、たかだか女子部一人に五人って、多くありませんか?」
私がその様に聞いたところ、先輩は言いました。
「いざ狐が憑くと、華奢な女子部とは言っても、五人いなければ押さえつけられないんだよ。もし押さえつけないと1メートル以上飛び上がってしまうんだぞ!」
どうやらそうなった時、その女子部員は「はなせー!はなせー!」と騒ぐそうですが、その声も女子部の声ではなく、しゃがれた男性の様な声で騒ぎだすので、五人で押さえつけ、御題目を唱えながら、落ち着くのを待つそうです。それをしないと飛び上がってしまい、場合によっては怪我させてしまう可能性もあるとの事でした。
幸いにして、私が一年間の間、担当に着いていた時には、そういった狐憑きとか、憑き物には巡り合う事はありませんでしたが、先輩たちの話はとても生々しく、空恐ろしい話にも思いました。
その他、私の居た地元組織でも、憑き物ではないのですが御題目を唱えると文字曼荼羅に目が出て来て睨まれるのが怖いという男子部が居たり、なかなか不可思議な話も幾つかありましたが、それらについては割愛します。
さて、私が区幹部や県幹部になる頃には、そういった話は組織の中で殆ど聞く事が無くなりました。偶に仲間内の幹部でも「最近はそんな話を聞かなくなったなー」とか「あれは宗門の害悪だったんだな」なんて語ってもいましたが、今回、唱法華題目抄を読んでみると、その事について思い当たる部分がありました。
これは先日の記事でも紹介しましたが、以下の御文でした。
「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず」
ここでいう座立行とは、禅三昧に入らず、坐・立・行に法華経の一字一句を一心に念じていくという事であり、長時間にわたり御題目を同じ姿勢で繰り返し唱える修行法とは異なります。同じ姿勢で視点を文字曼荼羅の一点を見つめ、御題目をマントラの様に唱えるのは、座立行というよりも瞑想(観心)に近い修行なのではないでしょうか。
人間の心には「無意識層」というものがあります。これは九識論で言えば「末那識」に属する部分かもしれません。人は無意識層にアプローチする際には、十分な注意が必要なのは、心理学でも云われている事です。
例えば心理学者のカール・グスタフ・ユングは、自身の夢分析をする為に、常に枕元にはメモ帳を置き、起きた直後に自分が見た夢を記録していたと言います。そして瞑想なども行っていた様ですが、晩年のユングは精神を病んでいたという話もあります。
また禅宗等でも「魔境」というのがあり、あり得ないビジョンを見てしまう事で、そこに固執して本来目的としている瞑想行が出来なくなったり、精神的に病んでしまうという事も以前の記事で紹介しました。
創価学会の草創期から、昭和五十年代まで、創価学会では唱題会と言っては、皆が一か所に集まり、一時間、二時間と唱題する事もあったと言います。また私が二十歳の頃には「百万遍の御題目」を年間の目標に掲げ、日々二時間や三時間という唱題を欠かさず実践する人もいましたし、十時間唱題会というのもありました。
しかしここ二十年ほどの間で、勤行は簡略化され、それに合わせて長時間にわたる唱題をする人数も組織の中で減少しているので、こういった「憑き物」の様な状況も発生頻度が下がったという事が、考えられるのではありませんか?
「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」
これは唱法華題目抄にある文ですが、そもそも長時間にわたる唱題行というのは出家者向けの修行法であり、もしそれをやるのであれば、やはり専門的な内容をしっかりと学んでから取り組む必要があるのかもしれませんね。
いまの五十代以上の元活動家の人であれば、こういった「憑き物」の事について耳にした事がある人もいると思いますが、私はこの様に思った次第です。