先日に書いた本山担当の思い出について、続きを書いてみたいと思います。昨今では「男子部大学校」という事で、創価班になるとか、牙城会になるとか、あまり意識させる事も無いのかなと思いますが、私の時代では本山担当とは創価班の中ではある意味で花形であり、青ブルゾンに白いズボン、そして大石寺に着任する姿が憧れでもあったのです。
それ以外では輸送担当というのもあり、これは登山会の当日、地元最寄りの駅から登山する会員を、大石寺の宿坊まで引率し、帰りも引率するという担当で、私はこの輸送担当を本山担当をやる前に、二年間やっていたのです。
この輸送担当もかなり神経を使うもので、集合時間の一時間半ほど前に担当創価班が最寄り駅に集まり、集合場所の確保から、日本旅行(通称、日旅)と打ち合わせ、団体電車の列車番号から、電車の停車位置の確認などを行います。そして会員が集まってきたら集合場所に一般の人達の邪魔にならない様に整列させ、参加者の確認。それが終わるとホームまで誘導し、それぞれの号車の扉の位置に整列させます。
約二百人程度の団体客を二人から三人程度でこれを行うので、この段階でかなり疲弊をします。電車が到着すると停車時間は一分程度なので、慌てずに皆を乗車させて、出発、乗車後には乗り込み人数の確認も行います。
一般的に会館運営では、場所が移動するという事は無いのですが、輸送担当では、引率する事が主体なので、つねに場所が移動する分、神経を使います。
私が本山担当になる前、既に本山担当している先輩からは「輸送担当なんて本山担当に比べたら大した事無い」と言われましたが、よくよく聞くと、その先輩は輸送担当を一度もやっていませんでした。だから「やらずに簡単とか言うのは止めた方が良いですよ」と苦言を呈した事もありました。
さて、本山担当の事について話を戻します。本山担当で私は二部四班という担当だったので、大石寺に到着後、さっそく丑寅勤行の運営に関する打合せを行います。丑寅勤行とは大石寺の貫首が中心になり、丑の刻から寅の刻(午前2時から4時)の間に行う五座の勤行で、場所は今は無き大客殿で当時は行われていました。一応、貫首(法主)が行うとされていますが、「お代理様」と言って、貫首以外の高僧が中心になってやる場合もありますので、当日、貫首が来るかどうかは解りません。
ただ宿泊している一般参加の信徒も参加する事が出来るので、その際の入場の導線とか、着座してもらう場所への誘導などについて、詳細な打ち合わせを行います。
そして午前1時前に輸送センター(今はもうありませんが)から四班のメンバーと第二部長は、丑寅勤行を担当する為に徒歩で大客殿に向います。深夜の大石寺はシンと静まり返り、その中を懐中電灯を手で持ち、山門から塔頭を抜けて進みます。この当時の情景は今でも脳裏に焼き付いています。
そして大客殿に着くと、正面階段を上りますが、上ったところにあの3.16で利用した「車駕」が展示されていました。そういえばあの車駕はどこに行ったんでしょうか。そして大客殿本堂に入り、それぞれが担当位置に着き、一般参加者の受け入れに準備します。
午前1時半になると、約百名から二百名ほど参加者が来ますので、創価班で作った導線により着座して待機してもらいます。そして時間になると「出仕太鼓」というのが鳴らされ、所化を先頭に能化が並び、貫首も入場してきます。深夜の大石寺に鳴り響く太鼓、そして少し暗めの照明の本堂に並んで入場してくるところは、それなりに赴きがあるものでした。
この「御出仕」に際しては参加者もそうですが、創価班も「伏せ拝」する事を、事前に担当の所化から指示されますので、私も伏せ拝をして迎えました。そして貫首が導師席に着座したら、鍾(しょう)が打ち鳴らされ、丑寅勤行が始まるのです。
私は見ていないのですが、先輩の幾人かは、この丑寅勤行の際に日顕師が所化などに行う「中啓パンチ」を見た事があると言っていました。なんでも日顕師が導師席についた後、所化を手招きし、その場で「ウリャー!!」と甲高い大声を出して中啓で二~三発、所化をバシバシとひっぱだいたそうです。
「宗門も創価班以上に大変なんだなぁ・・・」
これが当時の先輩の言葉でした。
また虫払い法会の時、御影堂に入る際に日顕師が同じく所化に「飛び蹴り」をしたのも見た先輩が居ました。まあ飛び蹴りと言っても、プロレスの技とは違い、多少助走をつけてケリを入れていたという事でした。
丑寅勤行が終わり、撤収すると輸送センターに戻るのは朝方の五時近くとなります。朝六時には本山担当のメンバー全員でラジオ体操が行われるのですが、四班のメンバーは基本的には参加しなくて良い、となっていたのですが「私達は訓練受けに来ているんだ!休む必要なんてない!」とばかりに睡眠時間が1時間も取る事が出来ず、そのまま翌日の一日任務へと進む事になります。
(続く)