エベン・アレクサンダー氏の臨死体験の事について続けます。彼はこの臨死体験の中でどの様な体験をしたのか。
彼は臨死体験で泥の中から光の中へ突入し、そこで美しい女性に出会いました。そしてそこでその女性から言われました。
「ここでいろいろな事を見せてあげましょう」
そしてこの女性に誘われ、「コアの世界」へ行ったと言います。
◆コアの世界
そこには一面に雲が浮かんでいた。
吸い込まれそうな濃紺の空をバックに、薄桃色の見上げるばかりの雲がくっきりとしたコントラストを際立たせて、そこに浮かんでいる場所だった。
雲の上ー上空のはるかな高みでは、キラキラ輝く透明の光の珠が、弓形に弧を描いて空を横切りながら飛び交っていた。光の珠が通り過ぎた後には、細い光の帯が吹き流しのように長い尾を引いていた。
そこには一面に雲が浮かんでいた。
吸い込まれそうな濃紺の空をバックに、薄桃色の見上げるばかりの雲がくっきりとしたコントラストを際立たせて、そこに浮かんでいる場所だった。
雲の上ー上空のはるかな高みでは、キラキラ輝く透明の光の珠が、弓形に弧を描いて空を横切りながら飛び交っていた。光の珠が通り過ぎた後には、細い光の帯が吹き流しのように長い尾を引いていた。
この「コアの世界」でアレクサンダー氏は「高次の存在」を感じ、その存在に対して疑問に感じている事を様々質問したと言います。それは要約すると以下の事だというのです。
私はその場所で、無数の宇宙に豊かな生命が息づいているのを見た。その中には人類よりはるかに進歩した知性を備えるものたちもいた。数限りない高次の次元があることも知った。高次の次元は、その中に入り、直接体験するかたちでしか知る方法がないこともわかった。低次の次元空間からは、高次元世界は知る事も理解することもできないのだ。因果の関係は高次元にも存在しているが、この世界の概念とは異なっている。またこちらの世界で体験されている時間空間は、いくつもの高次元に複雑なかたちで密接に織り込まれている。言い換えれば、高次元の世界はこの世界と完全に隔絶しているわけではない。あらゆる世界がそれらをすべて包み込む神聖な「真理」の一部分を構成しているのである。そして高次の世界からは、こちらの世界の時間や場所に自由につながる事ができるのだ。
そこで学んだ事柄を解き明かす作業は、この先の一生に加えてさらに時間をかけなくてはならない大仕事になるだろう。私に与えられた知識は、数学や歴史の原理や定理を「学習」する性質のものではなかったからだ。誘導されで学び取るという手順を踏まずに、そこではじかに洞察を得ることができた。記憶する手順を介さずに、瞬時に永久に消えない知識を授かった。得られた知識は通常のように色褪せることもなかった。私は今に至るまで、そのすべてを保持し続けている。学業を通じて身につけてきた長年の知識より、それははるかに明瞭な知識でもある。
しかしそうは言っても、その知識をありのままに引き出すことが出来るわけではない。世俗世界に戻ってきたいまは、脳や肉体による物理的な制約を経由しなくてはならないからだ。それでも知識はそこにある。自分という存在の隅々に植え付けられていることが感じられる。
そこで学んだ事柄を解き明かす作業は、この先の一生に加えてさらに時間をかけなくてはならない大仕事になるだろう。私に与えられた知識は、数学や歴史の原理や定理を「学習」する性質のものではなかったからだ。誘導されで学び取るという手順を踏まずに、そこではじかに洞察を得ることができた。記憶する手順を介さずに、瞬時に永久に消えない知識を授かった。得られた知識は通常のように色褪せることもなかった。私は今に至るまで、そのすべてを保持し続けている。学業を通じて身につけてきた長年の知識より、それははるかに明瞭な知識でもある。
しかしそうは言っても、その知識をありのままに引き出すことが出来るわけではない。世俗世界に戻ってきたいまは、脳や肉体による物理的な制約を経由しなくてはならないからだ。それでも知識はそこにある。自分という存在の隅々に植え付けられていることが感じられる。
ここで彼が学んだという内容を、このブログで全て書くことは出来ませんが、実は以前にも少し紹介しましたニール・ドナルド・ウォルッシュ氏の「神との対話」にもある内容に近しい事が多くありました。またそれだけではなく、その他の臨死体験者の中にも共通した事がちりばめられているのです。
当然ですが、ニール氏や他の臨死体験者とは、アレクサンダー氏は接点がありません。
臨死体験というのは、一般的に言う「意識」が喪失した状況であり、人は自分の内面世界(心象世界と呼んでも良いかもしれませんが)と、嫌が応にも向き合う段階に入っている状態です。ここで興味深いと思うのは、人が内面世界と向き合った時には、それなりに共通した認識や思考が出てくると言う事です。
チベット仏教では、臨終の時は以下の状況になると「チベット生と死の書」に書かれていて、この関連記事の最初の方で紹介しました。
「死の瞬間に、自分という存在の二つの相-究極の本質と世俗の本質、真の在りようと今世での在りようーが明らかになるということだ」
チベット仏教では「究極の本質」と呼んでいますが、これら多くの臨死体験者が、その際に体験し理解するという事は、チベット仏教でいう、この事と共通しているのではないか、私はこの様に思うのです。
人の心というのは、実に摩訶不可思議なものだと思いませんか?
またもう一つ、アレクサンダー氏がここで学んだ事についてこの様に語っています。
「しかしそうは言っても、その知識をありのままに引き出すことが出来るわけではない。世俗世界に戻ってきたいまは、脳や肉体による物理的な制約を経由しなくてはならないからだ。」
ここで彼は「脳や肉体による物理的な制約」と呼んでいますが、人が自身を理解した事を他者に伝達するには「言語」や「文字」を利用しなければなりません。しかし言語や文字で表現するには、自身の経験や社会で認識されている共通のシンボルを利用しなければならないのですが、臨死体験で体験した事には、それたが当てはまらず、それはとても困難な事であると言うのです。
以前に私は西欧人が赤道直下にいる未開部族にニワトリを見せて、それをその部族が何と呼ぶのか実験した話を聞いた事があります。
未開部族ではニワトリを飼育している訳でもなく、ニワトリを始めてみたというのです。すると彼等はニワトリを「子豚」という事で、言葉として表現したと言います。未開部族にとっては、ニワトリという生き物も、自分達が生活の中で見てきた「豚」の小さいものとして表現をせざるを得なかったというのです。
心を対象にした仏教などでは、僧侶の間で法諭をするときには「経典」や「論・釈」を中心に行います。ご存知の様に経典や論・釈は文字で記載されていますので、そこから「文証」という事を重視する風潮もありますが、人の心の形を表現するのに、文字や言葉というのは如何に不完全な媒体であるか、このアレクサンダー氏の証言を見て、良く理解する事が出来るのではないでしょうか。
少し話は変わりますが、大乗仏教の最高峰と言われる法華経。この経典の成立について明確な事は何も解っていません。ただ判明している事は、釈迦が入滅してから五百年ほど経過した時代に成立したという事です。また一説にはその成立には、当時、釈迦に直接会って教えを乞いたいという人達の間で、瞑想する事がムーブメントとして存在していた事から、その瞑想の中で実際に釈迦に教えを聞いたという人達の間で散文的なメモが残され、それが後に成文化して経典が成立したという話です。
「法華経は難信難解な経典である」
こういう言葉をよく耳にしますが、何故、難信難解で人々がこの法華経を理解しがたいのか、実は臨死体験者が体験した事を表現しずらいという事に、近しい事なのではないでしょうか。
心のかたちの摩訶不思議さ、それはこういった事からもまざまざ感じさせられてしまう事と、私は感じるのです。
(続く)