日蓮は「鎮護国家の仏教」の中心に法華経を置き、社会の中にも法華経を尊ぶ仏教を確立する事で、この日本に平和な仏国土を現出する事が出来ると考えていたと思います。ここでは立正安国論の本文の細かい部分については引用しません。ただこの考え方こそ、まさに鎮護国家の仏教の考え方なのです。
この様に日蓮が考えていたと考えるのには、他の御書にも以下の言葉がありますが、その事からも類推できます。
「法華折伏破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」
(如説修行抄)
ここでも法華経が広まり人々が御題目を唱える世の中になれば、この世界は理想郷の様な平和な世界になるという事を述べていますが、では果たして今の時代、南無妙法蓮華経と日本人の多くは唱える事が出来ますが、実際に平和で理想的な社会になっているのでしょうか。
現代では誰も信じませんよね、この様な理論。
日蓮の生きた鎌倉時代では、陰陽師も居て、その占いの結果が政治判断の拠り所となったりした「政祭一致」の世界でした。例えば日蓮が首の座で斬首されそうになった事を逃れ、依知(現在の神奈川県厚木市依知)の本間邸にあずかりの身になった時、幕府から以下の下知があったと言います。
「夜明れば十四日卯の時に十郎入道と申すもの来りて云く昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり」
(種種御振舞御書)
日蓮が首の座に引き立てられたのが十二日の深夜ですが、十四日に十郎入道という幕府の使者が本間邸を訪れ言うのは、十三日の夜中に北条時宗邸にて「大なるさわぎ」があって、それを陰陽師に占わせた処、日蓮を迫害したが故にこの騒ぎがあったので、日蓮を赦して召喚せよという事を言われたとあり、この占いの結果を見て日蓮を赦すべきだという意見も出たとありました。
この様な時代の中で語られていたのが「鎮護国家の仏教」なので、そのまま現代にその事を語っても、恐らく百害あって一利なしという状況も発生すると思います。では実際にどの様な実害が想定されるのか。ここに一つ歴史的な事について紹介します。
太平洋戦争前の日本の帝国陸軍に、石原莞爾という中将がいました。この石原莞爾は国柱会にも参加をしており、「世界最終戦争論」という著書を出版して、当時は一世風靡をしました。この本では、田中智学の「撰時抄」講話の中での「世界戦争は予言的不可避性」を述べていた事からヒントを得たとしていて、その大闘争が発生した後、世界は統一されるという論だったのです。
ちなみに「撰時抄」には以下の内容が語られています。
「国主等其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし其の時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」
「撰時抄」のこの箇所で日蓮は、正法の諫めを国主が聞かない場合には、諸天善神がその国の隣国に仰せつけて、前代未聞の大戦争が勃発するとあり、その時に、この隣国に攻め込まれた国の人々が仏菩薩に祈念をしても、何も守られる現証が出ない事から、正法により国を諫めた僧侶の言葉を信じる様になると述べています。
これは恐らく撰時抄を著した当時の元寇(文永・弘安の役)の事に絡めた話だと思いますが、国柱会の田中智学は、太平洋戦争の正当化の理論の一つとしてこの「撰時抄」を引用し、そこから石原莞爾は「世界最終戦争論」を著述したと思われます。
現在では顕正会が盛んに「中国の核ミサイルが日本を襲う」と喧伝していたりしますが、その顕正会の主張の根っこには、間違いなく「立正安国論」がありますし、創価学会で盛んに行う「選挙支援活動」という名前の捨て票集めの根底にも「立正安国論」が利用されているのです。
この様に鎌倉時代の日蓮の理論を、現代に流用するにも、そこを曲解してしまう輩というのが、何時の時代にも出てくるものであり、そこから要らぬ社会不安や、場合によっては悪政の素ともなってしまう可能性というのが存在するのです。
「法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」
(種種御振舞抄)
ここで日蓮は諸天善神が周囲を護る立場にある日蓮を用いたとしても、悪く敬えば、国が亡ぶと述べています。諸天善神が周囲を護る法華経の行者が日蓮であるかは別にして、日蓮の言葉というのは「あしく」とある様に、その真意をくみ取らずに安易に用いてしまうと、国の方向性すら過たせてしまう可能性のある言葉だと、私は考えています。