今回は法然房源空について少し取り上げてみます。
立正安国論では、この法然房を悪僧の代表格として取り上げ、徹底的に責め立てていました。ではその法然とはどういった人物であったのか、そこを知っている人は創価学会や大石寺の法華講の人の中には、ほとんどいないでしょう。
人物を知らずして、その人物を評価するのもどうなんでしょうか。そんな事を私は考えたので、少し法然房源空という人物について語ってみたいと思います。

法然とは長承二年(1133年)から建暦二年(1212年)、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した仏教僧です。生まれは美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)で母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれたと言われています。
「四十八巻伝」によると、保延七年(1141年)9歳の時に土地争議の為に父親が夜討ちにより殺害されますが、その父の遺言によって仇討は断念し、その後母方の叔父の僧侶であった観覚の許に引き取られました。そしてその才能を気付いた観覚により出家し、学問を学び、その後天養二年(1145年)に仏教の最高学府であった比叡山延暦寺に登り勉学に励む事になりました。
比叡山では源光に師事しましたが、源光からは教える事が無いと言われ、久安三年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄から受戒を受けました。その後、皇円のもとを辞して比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行に励みました。この時に叡空から絶賛され、18歳で法然房という房号と源光と叡空から一文字とって源空と名前を授かりました。
その後「智慧第一の法然房」と呼ばれるほどの秀才ぶりを発揮し、保元元年(1156年)には黒谷別所をでて清凉寺に七日間参篭し、そこに集まる人々を見て衆生救済について深く考えたと言います。その後、醍醐寺、また奈良に遊学し法相宗、三論宗、華厳宗の僧侶等と談義しました。
承安五年(1175年)、法然房が43歳の時、善導の「観無量寿経疏」によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進み、新たな宗派である「浄土宗」を開く事を考え比叡山を下り、岡崎の尾山の地で活動を開始しました。この浄土宗の教えが、その後人々の中に受け入れられ、浄土宗は瞬く間に日本国内に広がっていきました。
以上が法然房の生い立ちから浄土宗を開くまでの概略です。よく歴史で学ぶ鎌倉仏教という、鎌倉時代に起きた新たな仏教の動きの先駆けを起したのがこの法然房でした。それまでの僧侶は官僧であり、人々に仏教を布教する事が禁じられていました。しかし法然房はそんな中で人々の事を考え、自分自身として出来る事を考えて浄土宗を開き、人々の中に念仏宗を広めて行ったのではないでしょうか。
日蓮は立正安国論で法然房を責めますが、この民衆の中に仏教を広めるという行動のパイオニアは法然房だったのです。この法然房の起こした浄土宗を皮切りとして、それ以降、様々な宗派が起きる事にもなりました。
また法然房は比叡山で修学し「智慧第一の法然房」と呼ばれる程の秀才でしたが、その秀才が何故、比叡山を離れ、民衆の中で念仏を広めるという事に想い至ったのでしょうか。私はそこに法然房の幼少期の体験「父親が夜討ちによる殺害」も関係しているのでは無いかと考えました。
ここからは私見ですが、法然房は幼い頃に父親が殺害されたという事から、人の「生死」に対して、誰人よりも真剣に考え悩んでいたのかもしれません。そしてその解決を一番求めていたのかもしれません。しかし当時の比叡山延暦寺は法然房に「人の生死」という一番の根本的な問題に対し、明確な回答を与えるだけのものが無かったという事はないでしょうか。それもあって、後に法然房は「観無量寿経疏」に衝撃を受け、その後にあったと言われる夢体験から浄土宗を広める事に人生を掛けたのではないか。私はその様にも思えたのです。
これだけを考えると、法然房を単に「悪僧」というだけの認識で語るのは問題だと思います。
少し話は変わりますが、日蓮は立正安国論の中で客人が法然を悪僧であると言うが、社会の中でそんな話は聞いた事が無いという質問に対して、以下の事を語っています。
「其の上去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ其の門弟隆観聖光成覚薩生等は遠国に配流せらる、其の後未だ御勘気を許されず豈未だ勘状を進らせずと云わんや。」
これは浄土宗で言う「嘉禄の法難」の事だと思われますが、この法難は天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿という法然房の門下が流罪され、僧兵によって法然の廟所を破壊されたという歴史的な事件の事を言っています。
では果たしてこの時の天台宗の行為が「三世の仏恩を報ぜんが為」の行動だったのでしょうか。浄土宗にはそれ以前にも様々な法難があり、法然房自身も讃岐配流など流罪をされていた事もありますので、この事件も実は浄土宗があまりに急速に広がってしまった事に対して、天台宗が中心とした既存の仏教界からの大弾圧の一つだったと私は思えるのです。
この縮図は、立正安国論以降、日蓮門下にも同様な事で様々な弾圧や迫害、また後に日蓮自身が「龍ノ口の首の座」という事と「佐渡流罪」という事で、日蓮自身も体験する事になりましたが、それと同じ事が浄土宗でもあったというだけではないでしょうか。そうなるとこの立正安国論で日蓮がこの浄土宗に起きた「嘉禄の法難」を「三世の仏恩を報ぜんが為」というのも、何かの我田引水の様な事にも感じてしまいました。
以上が簡単は法然房源空に関する考察です。こういった事を理解した上で、立正安国論を見てみると、また少し違う当時の世相も見えてきますので、立正安国論に対しても、違ったものが見えてくると私は思ったのです。