ここ最近は感染者数が下がり始めているという報道がされていますが、一方で元首相補佐官であった政治評論家の岡本行夫氏が亡くなったり、著名な人達が新型コロナウィルスにより亡くなっています。著名人がこれだけ多く亡くなると言うのは、それなりに日本国内でも感染拡大が進んでいると思うのですが、公表されている人数は、それ程多くありません。
一体日本の国内感染者は何名なんでしょうか。果たして日本政府は感染者の実態をとこまで掌握出来ているのか、全くわかりません。またこの判らない様な状況では、緊急事態宣言の取り下げも、果たしてそれをどこまで信じられるのか、とても不安になります。
さて、今回は提婆達多と五老僧について少し書いてみたいと想います。
◆提婆達多について
提婆達多は言わずとしれた、釈迦に敵対した極悪人と言われている人物です。十大弟子の阿難の従兄弟で、釈迦に嫉妬して敵対し、釈迦教団の分裂を誘い、釈迦にめがけて岩を落とし、その欠片で釈迦は怪我を負い、酔象を放ちて釈迦を殺害しようともしました。伝説によれば、それらの事により大地が裂けてそこに落ち、無間地獄に堕ちたと言われています。
七世紀に「大唐西域記」を記した玄奘三蔵によれば、当時のインドには提婆達多が落ちたたという穴が残っていたそうで、ベンガル地方には提婆達多の教団が残っていたと言います。その教団は三伽藍を要して乳酪を口にせず提婆達多の遺訓を遵奉し、過去七仏の中でも釈迦仏を除いた賢劫の三仏を信奉していた事などが記されていたと言います。また法顕三蔵も五世紀にネパール国境近くで提婆達多派の教団に遭遇したと報告していました。
鳩摩羅什三蔵が漢訳した妙法蓮華経には提婆達多品が収蔵されていますか、これは後世に組み入れられたものと言われていて、初期の法華経には無かったと言われています。これは経典を読むと理解できますが、提婆達多品だけは他の品の文脈とは異なったものになっています。この事について近年言われているのは、大乗仏教教団と、提婆達多教団とは、歴史のどこかの段階で和解し、その事もあって法華経の中に提婆達多品として、龍女の即身成仏の物語と共に、阿私仙人の逸話として悪人成仏が取り入れられたのかもしれません。
確かに提婆達多は開祖である釈迦に反逆しました。そして最後に釈迦を殺害しようとしたと言いますが、そこにあったのは本当に釈迦への嫉妬だけであったのか。それ以外の事は無かったのか。また後に提婆達多教団として残り、それが大乗仏教教団と和解したという事実を考えた時、従来の仏教伝説にあった提婆達多像というのを、単にそれを鵜呑みにする事は出来ません。
◆五老僧について
日蓮の門下に於いても六老僧を「五一相対」という事で、日興師を正当後継者として、それ以外の五老僧を「日蓮を貶めた不詳の弟子」「忘恩の輩」という事で非難する言動が多くあります。しかしこの非難をする人達の中で、六老僧の事を細かく知っている人はおらず、主に日興門流の中で「五人所破抄」や「富士一跡門徒存知の事」により非難をしている人が多くいます。
しかしこの「五人所破抄」や「富士一跡門徒存知の事」は断片的な事実が書かれていたとして、本当の真実はどこにあるのか、そこはわかりません。
例えば日昭師は六老僧の筆頭であり、最古参の門下でした。日蓮の葬儀では入棺の儀式は日昭・日朗師が執り行い、葬儀では大導師をした事からこの事がわかります。日昭師は日蓮門下に入った時には、すでに「権律師」という資格を保有していました。これは天台宗官僧の資格ですが、それについて師匠の日蓮から指摘をされる事はありませんでした。日蓮自身、この「日蓮」とは阿闍梨号と言われており、それは天台宗の阿闍梨号です。
「富士一跡門徒存知の事」では以下の様にあります。
「一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云、又云く先師日蓮聖人天台の余流を汲むと云云、又云く桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す云云。
日興が云く、彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり、此の旨具に状に載せ畢んぬ、此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。」
日興が云く、彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり、此の旨具に状に載せ畢んぬ、此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。」
ここでは日蓮の述べた法門とは天台宗の法門であるという事を述べています。そして日興師は日蓮の説いた法門というのは法華本門であり、天台迹門とは違うという事で、それにより五人と日興師は義絶したと言うのです。
しかし日興上人が書写した「立正安国論」(玉沢妙法華寺蔵)の題号次下には、「天台沙門日蓮勘之」との署名があり、文応元年(1260年)7月16日、大聖人が前執権最明寺入道時頼に「立正安国論」を進呈した時、「天台沙門」の名乗りであったことが窺えるのです。
また日昭師は恐らく天台宗延暦寺で日蓮と知り合ったと思われます。(本化高祖年譜参照)また日昭師の兄は印東佑信という人物で、御書の桟敷を守護する役人だったと言われ、その繋がりから摂政左大臣近衛兼経の猶子となっています。この日昭師の持つ「権律師」の肩書と共に人脈が、実は日蓮の立正安国論の上呈や、その後の富木常忍という様な有力武家との人脈構築に、かなり助力を与えた事も想像に難くありません。その事から、日昭師は弟子でありながら、初期の日蓮教団において「共同経営者」の様な人物であった可能性もあると思われます。
ここで言いたいのは、六老僧の人間関係というのは、大石寺から教えられる様に、単純な「五人の忘恩の輩」と「正師・日興上人」というものではないと言う事です。
富士一跡門徒存知の事は1309年(延慶二年)、五人所破抄は1328年(嘉暦三年)。1309年には、既に六老僧の日持師は樺太に渡り日本には居ませんでした。また六老僧のうちで、日頂師は父親である富木常忍から勘当され、日興門下に入っています。五人所破抄が記述された時には、既に他の五老僧は鬼籍に入り、この世には居ない状況の中で日興門下の日順により著述されたものです。
この六老僧の事については、別に記事に起こしてみたいと思います。
仏教もそうですし、日蓮門下もそうですが、宗教というのは組織がつきものです。組織には組織的に都合の悪い事も多くあります。近年の創価学会の動きを見ても、そういった宗教の動きというのはよく分かります。
提婆達多や六老僧の事についても、その人間関係の真実は何か、そこに一体なにがあったのか、少しは冷静に考えてみる必要もあるのではないでしょうか。こういった人達の事を、単に組織的な悪人だという事だけで語るのでは、その宗教の実の姿が理解できないと言う事だと、私は考えています。