自燈明・法燈明の考察

高齢者医療と死生観について

 総選挙たけなわという処ですが、昨今、後期高齢者への医療費にまつわり様々な意見がネット上で飛び交っていますね。

 確かに所謂「寝たきり老人」の増加で、過剰な医療費が掛かっている現状と言うのはありますが、これによって医療費がかかり健康保険組合の予算を圧迫、現役世代がより多くの保険料の負担が求められる状況になっています。

 これについては老人本人というよりも。それを取り巻く親族や医療関係者の思惑(と言って良いかはありますが)が大きく関係していますので、単に後期高齢者を責め立てるのもどうなのでしょうか。

 先日、とあるニュース記事では「欧米には寝たきり老人はいない」というものがありました。その記事によれば、欧米では末期になり回復の見込みがない場合には、敢えて栄養輸液の点滴とか、胃瘻と言うような措置を行わずに、自然に任せて対応可能な範囲の医療で行っているようです。口から取れるのであれば、水分補給や食事は口から取らせ、あえて点滴などは行わない。その結果どうなるかと言えば、老人は枯れるように亡くなっていくと言い、日本の様に寝たきり老人というのは居ないと言うのです。

 以前にヒットした「病院で死ぬと言う事」(山崎章郎著)という本は、ホスピス医師の著者が、自らの経験をともに執筆された本ですが、そこで末期患者について「多くの患者はベットで溺死する(要旨)」と述べていました。これは体力が落ちてきた患者に対して、医師が中心静脈輸液を行い、患者に栄養補給をするそうですが、これにより患者の体内は水分過多となり、結果、タンが絡んだり浮腫が起きてしまっているというのです。これは本人にも負担をかけますが、山崎氏によればこの様な処置を行わない事で「人は枯れるように亡くなるべきで、その場合にはタンが絡むなどの余計な負担はかからない(要旨)」とも述べていました。

 昔の日本では、子供が生まれる場合には、自宅に産婆さんが来て出産し、老いて亡くなる場合には自宅で家族が看取りました。過去の慣習の全て良いとは言いませんが、人の誕生と死は常に生活の場の中にありました。しかし最近では出産も病院で行われ、看取りも病院で行われます。これは不測の事態に対応する事や、家族の負担を軽減するにはいい環境なのかもしれませんが、人の生死については生活の場から隔離された場所で行われてしまいます。そのため、昨今起きているこの後期高齢者の医療費に関する問題についても、何か机上の議論が多く交わされているように思えるのです。

 安易に「高齢者は自決せよ」とか「尊厳死の法制化をすすめるべし」という議論が目立ち、しかもそこに政治家までが乗っかり議論を発散させていますよね。

 果たしてこの議論をしている人達は、人の死へのリアル感をどれだけ持っているのでしょうか。

 人は誰でも歳を取ります。恐らく好き好んで老いている人は一人もいません。仏教ではこの事を「生老病死」の四苦と説いています。「4つの苦しみ」という事なので、本人の意思とは関係なくとつぜん訪れる事が多いのです。いまある議論は、この四苦の中で「病老死」の渦中にいる後期高齢者を安易に社会から排除しろという議論ばかりが目立つのですが、その議論を展開している人達(主に若者から壮年初期の人達)は、自分も何れはそういう事態に陥る事を理解している人達はどれだけいるのでしょうか。

 かくいう私も三十代までは、この老いると言う事、そしてその先に病を得て死んでいくという事は、頭の中で理解はしていました。しかし実父が末期がんとなり、日々衰えていく姿や、その先、病院で亡くなるという現実。また実母も認知症を発症し、日々人格が壊れていき、その先に衰えて病院で亡くなる姿をみた時、それまで自分の生活の「対岸」にあった「老、病、死」と言うものがリアル感を持って、自分の生活の中に入ってきました。

 また一昨年には私自身が癌を患いましたが、運良く初期のものであった事から治療を終えて現在は経過観察となっています。しかし発覚してから治療が終わるまでの3ヶ月間、検査に明け暮れる日々の中で「自分が死ぬと言う事」と対峙する事になりました。若い時には「何時死んでも構わない」なんて言ってはいましたが、この時は実際に家族を抱えて仕事をする中で、もし今自分が死んだらどうなるのか。これを真剣に考える機会を得る事が出来たのです。これは私の人生にとって、とても大きな経験でした。

 また最近では、私自身が仕事で定年も見え始めた中で、若い時には何でもなかった事が、次第に億劫になってきたり、記憶力や認知力、そして体力の衰えを感じる事も増えてきています。

 気持ちは「俺は二十歳代と変わらないぜ!」と考えていても、老いというのは静かに進行してくるものなのです。

 私は幸いにしてここ数年の間で、この様な経験をしてこれた事から、「老、病、死」という事について、若い頃よりもリアル感で捉えられるようになりましたが、いまある「後期高齢者」の問題や「尊厳死」を議論する人達はどうなのでしょうか。

 人は自分の死と直面した時、心の奥底から恐怖を感じます。病による苦痛については、ある程度覚悟はできるのですが、死によりこの世界から自分が居なくなってしまう現実を易々と受け入れられる人はいるのでしょうか。少なくとも私はそう簡単に受け入れられませんでした。それこそ日々の生活の中で、恒に死について考えている人の中にはそれを受容出来る人が居るとは思います。しかし多くの人達にとって、それは受け入れられない現実として迫って来るのです。

「何とか生きたい」「少しでも生き延びていたい」

 多くの人は、その刹那においてその様に思う事でしょう。

 また身内の死についても、安易に受け入れられる人が一体どれだけ居るのか。恐らく多くの人は狼狽し、親族や身内には少しでも長く行きていてほしいと思うのが普通ではありませんか?

 今の医学は「生物的な生」をどれだけ長続きさせられるのかに重点を置いています。医療関係者がそもそも医学を学ぶ現場では「死」を医療の敗北と捉える人が多く居るといいますが、自分達が関与した患者の死の受け入れを認められる医療関係者は少ないのではありませんか?

 この後期高齢者の医療費問題は、今の日本社会に大事な問いかけをしています。これを安易に「尊厳死」「高齢者は自決しろ」という言葉で終わらせるのではなく、私達がこの世界に生まれ出た意味、そして人生の意義、その上から訪れる「老、病、死」を真摯に考える中で、日本人社会としての在り方を議論する時ではないでしょうか。そして当然、社会で考える上では、当然、家族の中でも話し合うべき時なのではありませんか?

 今の日本社会では、産まれる事と、死ぬことは全て社会から隔絶された環境に閉じ込められています。それはつまり日常生活で意識する事は殆ど無いことを意味します。そうではなく、身近な問題としてこの事について、社会の中で広く語り合う時が来たと言うことなのかもしれません。


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