今月の27日には総選挙の投票日ですね。
私は若い頃には公明党を支持していましたが、現在は支持していません。選挙の時には常にフリーハンドで時々の政治状況の中で、自分なりに考えて投票をしています。
私も創価学会の活動を止めてから二十年近く経ちます。一応、まだ組織に籍は残っていますが、組織活動は一切していませんし、幹部が訪問して来た時には、質問攻め・指摘攻めにしてきたので、それが組織内にも噂として広がっている為か、今では私宛に訪問してくる幹部なんて地元にはおらず、年に何回か地元の壮年部が様子見に来る。そんな感じになっています。
そんな中ですが、先週にとある大幹部が私の家を訪問してきました。
誰かと思ったら、男子部時代に良く一緒に活動していた先輩で、その先輩は、今では地元組織でもそれなりに大幹部になっていました。デカい会合ではひな壇上に座り「幹部指導」なんてする様な立場になっていたんですね。
何でも私が住んでいる地域にその日は「激励」に入ってきているという事で、地元の幹部が「支援しない厳しい壮年部員を、公明党支持にひっくり返してくれ」という相談を持ち掛けた様なんです。
始めは「ジャブ打ち」ではありませんが、昔話に花を咲かせました。それこそ二十年以上前に、一緒に活動していた時の事を、互いに懐かしむ感じでした。
その後「いま私は公明党の選挙のお願いにこの地域を回っているんだけど、支持してくれないかな?」と、先輩から話を切り出して来ました。
私は「それは勘弁して下さい。2000年以降の自公連立政権以降の公明党なんて、自民党の”下駄の雪”ですから、私は支持なんて出来ないですよ」と言いました。
まあそうしたら「池田先生の設立した公明党」「池田門下として育った素晴らしい人材で同志」「公明党がガンバル事で、これからの日本は明るい未来が開ける」「それこそが広宣流布なんだ」という様な、まあ60代を過ぎだ男が少年の様に目をキラキラして語って来るんですね。
これを見た時、「あ~、この人には幾ら指摘しても理解できないんだろうな」と思ったのですが、年金安心100年プランの崩壊、過去にあった安保法制が如何に法治国家の根幹を破壊する行為であったのか、消費税増税により日本の景気は失速し今ではOECDの中でGDPを見れば発展途上国並みになってしまった事。また移民政策についての問題点等を指摘しました。兎に角「自公連立政権」になってから、今の日本の凋落になってしまった事を話したのです。
そして第二代会長の戸田城聖氏は「青年は政治を監視しなければならない」と言っている通り、本来は信仰者の持つ哲学性の下で、自分達が関係している政治に対しては距離を置きながら、必要であれば厳しく接する必要があるのではないかと話しをしました。
すると先輩は「違うよ、君の様に批評する事は監視する事でも何でもない」と言い、「大事な事はそういった政治に取り組む事が、戸田先生の言う政治の監視なんだ。そしてこの政治への取り組みとは公明党を支援して勝たせる事なんだ」と言うのです。
「あー、やっぱりこの人にも通じないか」
私はもうこの時点でこの大先輩との語らいを止める事にしました。
私達が国民として政治に関与できるのは「選挙」を通して政治的な代弁者を選ぶ行為によってだけなのです。何しろ日本は「議会制民主主義」という政体を取っていますから、自分自身の政治信条に近しい「BETTERと思う人」を選挙により選任して国政の場に送り出す。もしその選任した人物が、自分の想定と異なる動きをしたなら、次回の選挙でその人物には投票せずに、それとは違う「BETTERと思う人」に投票する。それこそが「議会制民主主義」での政治の関わり方だと思います。
そして国民の間では、政治的な語らいが出来れば議論をし、互いに政治についての理解を深めていく。そういう事が「議会制民主主義」の根幹であるはずです。要は国民が政治について関心を持ち、互いに意見交換をしながら国の方向性について議員を選択する事で決めていく。
しかし創価学会では「政治的な代弁者」ではなく、単に創価学会という組織が「指名」した候補者を当選させる為に票を集めるという事が「政治活動」であるだけでなく「信仰活動」になっている訳です。そして「信仰活動」である事から、個人の政治的な考え方は問わずに、宗教指導者の「指導」通りに票を集める事。そしてそれが「政治への関与」であり「政治を監視する」という事だとしているのです。
宗教とは教義への思索や研鑽が重要な事なのですが、宗教団体ではどちらかというと「教え」を信じる事に力点を置いてしまいます。要は「信じる者は救われる」という事ですね。そこでは個人の教義への思索というのは軽視されてしまいます。創価学会ではこういう個人的な考えは「我見(自分勝手な解釈)」として組織からは誡められていますからね。
「もう、この話はやめましょう。この状態でお互いの理解を深めるのは難しいでしょう」
私がこの様に言うと、その先輩は見下す様な目線となり「ああ、君の考え方は解ったよ。うんうん」と、そして「そんな批評している事では、何も政治を監視している事にはならないよ」と言われました。
その後、その先輩は今の立場となり、どれだけ多くの自民党議員と語らいの場を持てたのか、そして公明党候補者の人格が勝れてるのかを得々と語り始めましたが、そんなレベルの話は以前に私も仕事で事業を立ち上げようとした際に、多くの議員関係者とも繫がりを持った事からだいたい想像がつきます。何をそんなに誇りたいのか、そう思いましたが、そんな事をこの大先輩に行っても理解されないだろうと、あえて話をする事を止めました。
「政治を監視する事」には、今の政治状況を己の価値観でしっかりと分析して理解しなければなりません。「政治に関与する」という事は、別に国会議員と語らう事や、その国会議員の当選の為に票集めをするだけではありません。本来であればその出馬する議員に、正面切って問題提起が出来て居れば良いのですが、今の創価学会の取り組みでは以前に自民党議員も言っていた「集票マシン」としての関与しか出来ていないのが現実なのです。
創価学会の会員で集票活動をしている人達は、具体的に今の政治的問題をどの様にしたら解決できるのか。今の停滞した日本をどの様にしたら少しでも改善する方向にしていけるのか。そういった事への具体的な答えは持ち合わせておらず、あるのはただ「広宣流布すれば世界はバラ色の良い世の中にある」という認識だけなんです。だからその「広宣流布」の為に公明党や自民党の票を集め、今の自公連立経験を維持させるという「選挙信仰」の事しかないのです。
結局、この大幹部との対話も、本来なら私は政治的な問題や今後の在り方の話をしたかったのですが、何故かすべてが信仰活動の話でしか受け付けられない様です。
とても残念な事ですが、これが自民党が「集票マシン」と呼び、その自公政権を支えている創価学会の政治活動なんですよね。
もうやめてほしいものです。