自燈明・法燈明の考察

仏(如来)について

「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、」
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 のっけから観心本尊抄を引用しましたが、日蓮は十界のうち九界の内容については詳細に示しながら、仏界については他の九界が存在するのだから、ある事を信じて疑念を持ってはいけないと述べています。法華経が素晴らしく大乗経典の最高峰だと言っても、この「仏(如来)」というのは如何なる存在なのか、そこを論じない限り、この法華経の話は進まないでしょう。因みに日蓮はこの仏については以下の様にも述べています。

「教主釈尊は[此れより堅固に之を秘す]三惑已断の仏なり又十方世界の国主一切の菩薩二乗人天等の主君なり行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり四衆八部後に聳い金剛前に導びき八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ」
(同、観心本尊抄)

 ここでは教主釈尊(仏)とは、三惑を已に断じきった存在であり、全世界の指導者の精神的な支柱である。そして諸天善神の主君でもあり、歩くときには大梵天王や帝釈天王が左右に付き、多くの弟子たちは後ろに付き従い、金剛力士は前にいて導き、八万法蔵を人々に説いて悟りを得させる存在だと言うのです。

 間違えてはいけないのが、よく言うご利益信仰で語られる様な「おすがりする存在」としての仏というのは、そもそも仏教にはありません。

 また日本ではやはり葬式仏教の影響からか、この仏というと死んだ人等を現代人は想像すると思います。若しくは鎌倉の大仏や奈良の大仏などを想像する人も多いでしょう。国宝の様々な仏像をイメージするかもしれません。だから「仏(如来)」と言っても、本来の仏教で言うところの仏とは違うモノをイメージされる事でしょう。

 しかし本来の仏教でいう仏とは仏陀(ブッダ)ともよばれ、覚者(覚った人)という意味があります。よく釈迦を「ゴーダマ・シッタールダー」とも呼びますが、これの意味も、全てを知悉した人と言う意味なのです。

 原始仏教では仏とは、インド応誕の釈迦一人でした。しかし大乗仏教では、釈迦の過去世での様々な菩薩としての修行の物語(これ葉ジャータカ伝説と言います)を通して、多くの仏が説かれるようになりました。よく言う「三世十方の諸仏」と言いますが、これは時間的には「過去・現在・未来」に亘り、上下左右東西南北と何れの場所にも様々な仏がいると言うのです。

 つまり当初の仏教では、ある意味で属人的に釈迦一人という超絶した存在であった仏が、大乗仏教に至っては全宇宙に過去から未来に亘り、普遍的に多くの仏が存在する事になったのです。これはつまり唯一の存在である仏(如来)という存在が、普遍的になり、人々は誰しも仏になれる可能性を秘めているという事にもなったとも言えるのです。

 とは言え、法華経以外の経典では、その原理を明確に説かれておらず、やはり仏(如来)とはいっても、普通の人々とはかけ離れた存在と言う事に変わりはなく、そういう意味では釈迦一人が仏であるという認識とは、あまり変化がありませんでした。

 この事から仏とは救済者という様な認識からは脱却していない状態であった同時に、凡夫と呼ぶ私達は、あくまでも救済される側にあったとも言えるのです、



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