衆議院も解散となり、今月末(2024/10/27)に総選挙となりました。ネットのニュースを見ても、X見ても、色んな政党色んな候補者が、それこそ国民には「耳障りの良い」言葉のオンパレードを発信しまくっていますよね。
しかし今の日本に必要なのは、そんな耳障りの良い、守られる事無き「公約」では無いと思いますが、恐らくその事に気付いている人達はどれだけ国民の中にいるのでしょうか。いや、その前に政治家や政党の言動には飽き飽きしている人が大半なのかもしれませんね。
私は今回の衆議院で注目しているのは「投票率の伸び」なのです。
今の日本、今いる政治家や既存政党がどな事をやった処で、日本の状況なんて直ぐには変わらないと感じています。まあそもそも本気で日本を良くしようと考えている政治家が、一体どれだけいるのか。
まだ私が若い頃の政治家達は、それでも少しは頑張っていたと思いますが、「戦争を知らない子供たち」の世代が政治家になってからは、何か根っこが無い政治家ばかりになり、本気で日本という国や、そこに住んでいる国民の事を考えず、私達国民をまるで「ATM」の様に考えて、政治的な課題の抜本的な解決方法に取り組まず、どうも縦割り行政の霞が関の言うママ、法案を制定して政治を行っているようにしか思えないのです。
なんなんですかね、これは一体。
日本は果たして変われるのか。そこには様々な障壁がありますが、私が思うに一番の障壁はやはり「国民の意識」なのではないでしょうか。
良くも悪くも日本人は、太平洋戦争後に「敗戦国の優等生」よろしく奇跡的な経済的な復興をとげ、戦後の冷戦構造の中では、戦争に巻き込まれることなく、平和な時代を享受し、そしてその平和を「日本国憲法による平和」だと勘違いして生きてきました。
以前に聞いた話ですが、1960年代に安保闘争というものがありました。この安保闘争(60年安保闘争)では、終戦後まもなく締結された日米安保条約の改定交渉を、岸信介が単独で行い、国会では与党のみ賛成する強行採決で可決された事から、当時の左翼が反米運動とそれに伴う大規模デモ運動を起こし、そこでは大学生など若い世代が中心となった闘争となりました。
結果として改定安保条約は可決されましたが、そのデモ運動を経験した与党政治家たちは「若者には政治に関心持たずに、娯楽に眼をむけさせる様にすべきだ」という考えがあり、それ以降、若者向けの娯楽が国内では盛んになり、結果としては政治家の思惑通り、若者たちは政治に関心を持つ事も少なくなったというのです。
この話の真偽は判りません。しかし1970年代以降、日本は確かに経済的に豊かになり中流層も多くなりました。そしてその先に政治に対する関心も薄まっていきました。ここには政治家の汚職なども多くあったのは事実ですが、それに対して不満を行動に起こすことなく、「政治的なシラケ」が社会の広範囲に拡大し、結果、それが現在に至っているのではないでしょうか。
「どうせ選挙へ行っても、世の中は何も変わる事は無い」
「選挙へ行っても投票したい候補者がいない」
結果として1990年代の政界再編まで「55年体制」と言われる、与党自民党の固着化が続いてしまい、野党も政権を担うという意識も無いという「政治的ななれ合い時代」が続いたのです。
しかし1990年代に入りソビエト連邦の崩壊に伴い、この「55年体制」の保守・革新のイデオロギー対立という形が崩れ、そこに自民党の政治とカネのスキャンダルが重なり、1993年の衆議院選挙では自民党の分裂もあって与党の過半数割れがおこり、結果として非自民党連立政権の細川連立内閣が発足する事になったのです。
しかしそこから30年が経過しましたが、結果としては自民党の長期一党の政権(公明党などが与党には一応参画していますけどね)に戻ってしまいました。過去に幾度か非自民党系の政権が出来たのにも関わらず、そこでの不祥事などもあってか、国民の政治的シラケは危険水域を超えてしまったようです。
いまタレントの中にも「自民党を選ばないとして、ではどこの党に投票したら良いかわからない」「結果、自民党しかないんでね?」という言葉を発信している人もいますが、今の日本人は「民主主義」という体制をどれだけ理解しているのでしょうか。
民主主義では政治家を国民が投票で選び、その政治家を代理人として国民が国政を動かしていくというものになっています。そこにある主役は国民であり、国民は常に政治的な代理人である政治家を監視しなければならない立場にあるのです。監視とは何かと言えば、約束した事を反故にする政治家は選挙で落選させる事が必要なのです。前回、公約を発表して政治家になった人が、もし国民に不利益を与え、公約を反故にしたのであれば落選させなければならないのです。しかし昨今では「野党にも碌な人物がいない」と言い投票を棄権し、結果としてそういった公約を反故にする政治家を居座らせてしまい、そこに多くの利権も発生し、結果として政治家を家業とする様な二世・三世議員や、巨大宗教団体の利権代弁者の様な政治家を居座らせてしまっています。
それはダメなのではありませんか?
前回支持した議員であっても、ダメならば落選させる。その為に対抗馬である野党政治家に投票する行動が、何故とれないのでしょうか?
「過去に野党が政権とった地獄の様な時代を思い出せ」
そんな言葉がありますが、そもそも民主主義政治では、そんなリスクは織り込み済みであり、政治家を選挙というタイミングで国民が選ぶ事により、政治家の意識を国民が変革させるというのが民主主義という制度なんだと、どうして理解できないでしょうか。
見主主義とは、国民にその様な「覚悟」を求める制度なのです。
だから国民はその覚悟をする為の「胆力」を持たねばならないのです。
そして国民が「胆力」を持つためには、しっかりとした価値観を持たねばなりません。その価値観を造り出す為には「教育」であり「歴史観」がどうしても必要なのですが、残念な事に今の日本では教育は崩壊状態となり、歴史観すら曖昧になってしまっています。
私が昨今の日本の政治的な閉塞感の根の深さを感じるのは、こういった事に依るのです。
国民が持つ「胆力」のパラメータの一つに、選挙の度に発表される投票率があるので、私は今回の総選挙でも投票率の動きに注目している訳なんですね。
今の日本には様々な問題があります。
これら問題は一朝一夕で改善する事はありません。そもそも一億二千万人いる国家という組織体なので、そこには「モーメント」も働きますから、総選挙一回で何かが劇的に変化する事もないでしょう。しかし日本人がこういう本質的な事に気付かない限り、この国や民族の未来は、正直明るい兆しというのは見えないと私は思うのです。
皆さんはどの様にお考えですか?