さて、「エミリーローズ」を見て考えた事について、今回も書かせてもらいます。エミリーローズでは、主役のエミリーが「天国」という事と「悪魔が実在する」という事を証明したい言つていました。これは私達が生活する物質世界以外にも、別の世界が存在するという事を言っているのかと思います。
この映画では「エクソシスト(悪魔祓い)」の事が語られている事から、キリスト教のカトリック教会の世界観に基づく話となっています。キリスト教の死生観では、人は死後に行くところは天国と地獄、そしてその中間には煉獄という事を述べています。そして「悪魔(サタン・デビル)」とは地獄にいる存在と考えられている様です。
つまり「悪魔が実在する」という事を自身の姿を通して証明するという事は、キリスト教の死生観について証明するという事にもなるでしょう。
しかしここで考えてしまう事は、この話で語られる死生観とはキリスト教カトリック教会の死生観であり、けして人類全般に普遍的な事ではないという事です。例えば地獄・煉獄・天国という死生観は、仏教国にはありません。また仏教でいう地獄とキリスト教の説く地獄は異なります。そもそも「黙示録」「最後の審判」という思想も仏教にはありません。だから単純に「悪魔(サタン・デビル)」と言われてみても、その様な概念は仏教国には通じないのです。
このエミリーローズの映画内容から、ネット上にあった意見として、死後の世界は人の宗教観別にあるという様な意見がありましたが、私はこれは違うのではないかと思いました。もし死後の世界が宗教観別に存在するとした場合、それほど窮屈なものは無いのではないかと私は思うのです。
確かにエミリーローズで描かれている様に、アンネリーゼ・ミシェルは、この世界に悪魔は存在すると言う事を証明しようと考えたのかもしれません。これはこの世界には目に見えるもの、物理的に証明出来る事以外のものが存在するという、とても大事な視点を提示していると思います。しかしその目に見えるもの以外の存在とは、単に一つの宗教による観点の枠に収まるものでは無いと、私は思うのです。
私は仏教を信じている立ち位置になるかもしれませんが、だからと言って、仏教全般で語られている死生観が正しいとも考えていません。それらの死生観は、大事な観点を与えてくれるものだと思いますが、やはりそれらを鵜呑みにする事は出来ないのです。
この死生観ですが、特的の宗教観を鵜呑みにすることは、その人の生き方を特定の宗教に縛らせる事にもなります。創価学会の活動家達が、どんなに政治が不透明になろうが、その支援政党が自分達の過去の主張と異なる行動をとろうが、盲目的に支援する行動を見ても、その事は容易に理解出来る事でしょう。
本当であれば一人ひとりがしっかりとした考え方を自分の中に構築する必要があるのですが、今の時代、それはとても難しい事なのかもしれません。何故なら人間の生死は、今の時代、病院という施設の中に閉じられてしまっているので、中々、思索するきっかけを得るのは難しい事だと思うのです。そういう事から言えば、このエミリーローズの映画は大事な観点を与えてくれるモノだと思いました。
このブログの過去の記事で、心のかたちとして様々な事を書いてきましたが、次回からその観点を元に、この事を更に書いてみたいと思います。
(続く)