自燈明・法燈明の考察

私は罰論が大嫌いです

 世の中は様々に動いている様ですが、今の時代ほど真実が解り易く、また騙しやすい時代というのは無いのかもしれません。これ、何気に背反する事を言っている言葉ですが、今の人類社会はこの状況ではないかと思うのです。

 よく「人を隠すには人込みに」という言葉がありますが、物事の真実というのも実は結構身近にあると思うのです。ただこの「物事の真実」を隠したい人達は、その周辺に似たような「偽情報」を多量にばらまき、それを隠蔽しようと考えるでしょう。今のネット社会、情報を下手に消せば消したで騒がれますので、削除して隠すよりも似た情報を多量にばらまく事で、逆に隠蔽出来るという事なのでしょう。

 これはUFO関連の情報かく乱に、CIAが採用した手法という話でもありましたが、日本語で言えば「玉石混在」させる事で見えなくさせてしまうという事ですね。

 ですから身近にある「真実」を知るのは、自分自身の「情報リテラシー」を磨く以外に無い時代に入ったとも言えるのではないでしょうか。私はその様に思っているのです。

 さて話題はガラリと変えて今日の本題。
 昨年から始まった新型コロナウィルス禍を「総罰(全体が受ける罰)」とする言葉が、今の時代でも多く見受けられますね。これは十年前の東日本大震災でも同じ言葉が乱れ飛びました。

 この言葉を好んで利用するのは、創価学会や日蓮正宗関係の門信徒や元・門信徒の人達が殆どです。


 この罰ですが、創価学会では「仏法」という法に乗っ取らない言動をする事で、その人自身に様々な不利益が起きる事を罰と呼んでいますが、これは「法罰」に属するものでしょう。しかし日蓮の御書を検索すると「法罰」というのは一か所にしか見つかりません。またこの一つの御書というのが「産湯相承書」という、これまた後世の偽作の可能性が濃厚なものです。「仏罰」に至っても同じく御書の中には一か所しかありません。

 では日蓮は「罰論」を振りかざさなかったかと言えば、そうではなく「罰」という言葉を検索すると山ほど出てきます。だから日蓮も罰論を徹底して使っていた事もあり、結果として創価学会や日蓮正宗では「罰」という言葉を多用したりもするのでしょう。

 いやな思想ですね。

 私は十年前の東日本大震災についても、また現在の新型コロナウィルス禍についても「罰論」で論ずる事はしていません。「罰」というのは「間違いを起こした」という事に対いする「罰(不利益)」という意味となります。これには対語として「正しい行い」をすると「功徳(利益)」という事も指す事になるのですが、世の中で起きる事は、正しいとか間違えているという単純な事では無いでしょう。これには「正義」と「悪」の二元論に通じる思考が内在していますが、「正義」と「悪」が相対的にある事と同様に「罰」と「功徳」も所詮は相対的な事でしかありません。

 人生の中で「悪い出来事」というのは沢山あります。しかし長い人生を振り返ってみると、その悪い出来事という経験があればこそ、後に人生の大事な事に気付く事も沢山あります。また逆に「良い出来事」という事の裏で、足元をすくわれてしまい、人生どん底に陥る事も沢山あります。

 「罰論」とは、そういう人生の複雑な事を見えなくして、考えない様にしてしまう論理にもなるので、安易に使うべき言葉では無い。私はその様に考えているのです。

 牧口会長や戸田会長が、日蓮の文字曼荼羅の讃文に「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破作七分」とあるのは、功徳と罰を明確に示していると語っていましたが、日蓮直筆の文字曼荼羅で、この讃文が記載されているのは極わずかな文字曼荼羅だけであり、例えば日蓮正宗の言う大本尊には、この讃文は書かれていないのです。

 またこの罰論の考え方ですが、「六道輪廻」という思想にも使われています。曰く、過去に泥棒をしたら現世は貧乏人になる。過去世に仏法誹謗を行えば邪見の家に生まれてくる。要は「宿業論」に基づいた「輪廻転生観」です。

 仏教でも、原始仏教と言われる初期仏教には、この輪廻転生という事は否定されていますが、大乗仏教に於いて輪廻転生という事は肯定されています。そしてその肯定する輪廻転生に宿業論という、いわば罰論が混じり込み、「六道輪廻」という思想が出来上がっています。

 この業因業果による輪廻転生観によって、人は様々な思考的な縛りを受けてしまいますが、それは結果としてその人の人生を雁字搦めにしてはいないでしょうか?

 そんな窮屈な思想に、人々は何故求めて縛られるんでしょうか。もう少し考えれば良いんですが、なかなかそんな鉄鎖を断ち切る事は出来ませんね。結果、宗教貴族の様な宗教屋たちに人生を奪われ、それが幸福だと信じてしまうんですから。

 罰とか功徳というのは、人間という種族を軸にした、身勝手な論理に過ぎません。人間も地球に住む他の種族の動植物の一部という観点に立つのであれば、そんな考え方は無いと理解できるはずなのです。

 少しは考えてみたらいかがでしょうか?


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