法華経に説かれていた広宣流布というのはどういう事なのかについて書き続けてみる。
法華経薬王菩薩本事品第二十三にあったのは、要約して言えば法華経の思想を広く宣揚し、流布する流れを止めてはいけないという事だった。信仰と宗教、そして組織化という事について考えてみると、相反するものがある事について先の記事では書いてみたが、物事が絡みあった時には目的に立ち返り考える事が必要だと思うので、この法華経にある広宣流布の意味について書き続けてみたい。
つらつら考えてみると、多くの人が法華経の思想を学び掘り下げ、各々が各自の生活の中でそれを活かしながら、実生活の上で法華経の思想を理解するには、やはり組織的な事は必要になるだろう。しかしそれは「強固な組織」というものでは無く、個々が屹立した立場で関われる事が出来るような組織でなければならない。
またその組織の拡大強化は広宣流布とは関係無く、法華経を信仰の根幹にした各々が生活の中で理解が深め、そこから社会の中で各人が周囲の人達の共感を以て、この法華経の考え方を浸透させていく事ができれば、実は組織拡大なぞなくても広宣流布なのではないのだろうか。
もしかしたら現代に於いては、例えばネットを中心にした緩い繋がり程度のものでも組織体としては事足りるレベルなのかもしれない。釈迦が提婆達多に対して「汝は他人の嘔吐物を食らうものである」とまで言って弾呵した事も、組織体として強固なものにすると、そこから人を縛り付け、結果として心の自由を奪い、組織に従属させてしまう事を危惧した事からで、それは釈迦の考えていた人々の救済という方向とは違うものにしてしまう危険性を知っていたからかもしれない。
日蓮正宗の広宣流布観が戦後の創価学会の組織的大膨張を生み出し、そこから組織的な利権も生まれ、政治と結びつき、結果として様々な問題を生み出しているのはX(旧Twitter)を見ても明らかだ。こと創価学会は政治との関わりにより日本国内に於いては民主主義を破壊している。また顕正会でも組織拡大を広宣流布といい、あたかも日本という国を顕正会が覆い尽くす事によって安寧な社会が現出するという夢想を拡大させ、結果として日本国内であたかもテロ活動の様な事まで起こしてしまっているのである。
広宣流布とは人の心の中に、法華経で説かれている事を浸透させる運動でなければならない。そうであれば組織活動についても、単に人集めとか、機関誌購読拡大とか、ましてや無条件な特定政党への支援などでは無い。むしろそれは教学運動であり、それに基づく啓蒙活動が主体になって然るべきではないのか。そしてそこには当然「会員の拡大」というのは必要無い。学びたい人が学び、そこで研鑽した事を自己の生活の糧に出来ればよく、組織に命をかけて行くという生き方はそこには存在しない。あるのは各々の社会生活の充実と人生のより良い生き方があれば良いだけだろう。徒党を組んで社会活動をするのでは無く、一人ひとりが考えてそれぞれの立場で社会に参画が行えれば良いだけではなかろうか。
要は法華経の思想を断絶しなければ良いだけのことでは無いのか。大石寺を端緒にした広宣流布では、そもそも法華経の思想が断絶したまま、自分達の集団が社会のイニシアチブを取ることにのみ汲々となってしまっているが、それでは広宣流布とはそもそも言えないだろう。広宣流布は有象無象を集める事を志向してなんていないのだ。
だから広宣流布を語るのであれば、先ずは法華経の思想とは何か、これは時代に併せた展開も必要になるが、今の時代においてどの様な事を語れば良いのか。そこをまず法華経を信仰の基とする人達は真剣に考えなければならないのではなかろうか。そこに重点を置く事こそが広宣流布という言葉に則している。
次は地涌の菩薩について考えてみたい。
日蓮は自身を地涌の菩薩の上首(リーダ)の上行菩薩の再誕であると位置づけていた。あくまでも釈迦仏の本門の弟子という位置づけであるとしたのである。これは法華経の従地涌出品第十五の以下の言葉に拠っているのだろう。
「止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん。」
従地涌出品の冒頭では娑婆世界以外の国から虚空会に来ていた菩薩たちが、それまでの釈迦からの滅後の弘教の要請を聞いて、滅後に娑婆世界で法華経を広めたいと申し出たが、釈迦は言下にそれを断ったのである。私には娑婆世界に六万恒河沙という多くの菩薩がいて、その菩薩達が私の滅後に法華経を広めるのだと。
その言葉の後に大地の下から出現したのが地涌の菩薩だった。この地涌の菩薩は六万恒河沙と説かれているが、一恒河沙とはガンジス河の砂粒の数と言われているので、その六万倍という事はそれだけ見ても膨大な人数となる。さらにこの菩薩はそれぞれが「唱導の首」と言われ、それぞれに六万恒河沙の眷属がいるという。ただこの眷属の数は様々あって、十万もあれば一万もあり、場合によっては一人で道を行ずる菩薩もいると言うのである。「唱導の首」の菩薩でありながら、六万恒河沙もいれば一人で行ずる者もいるという事は多種多様な姿を持った菩薩達なのだろう。ただ言えることは、無量無辺の人たちが娑婆世界の大地の底から湧き出して、それぞれが様々な姿で釈迦の下で修行をしていたというのだから、これは圧巻な展開だった。
またこの地涌の菩薩とは、その見た目が釈迦と比較しても大いに異なっていた事も説かれている。
「譬えば人あって色美しく髪黒くして年二十五なる、百歳の人を指して、是れ我が子なりと言わん。其の百歳の人亦少年を指して、是れ我が父なり我等を生育せりと言わん。」
ここでは釈迦は二十五歳の青年に見え、地涌の菩薩は百歳を超える大人物に見え、その百歳の人物が青年を指して「これは私の父親である」という様な違和感を地涌の菩薩を見た菩薩や大衆が感じた事を述べている。つまり釈迦よりも見た目も立派であり大人物の様な風格を備えていたとある。
この違和感を感じた事から、弥勒菩薩が代表して釈迦に質問をして、そこから久遠実成が明かされるという流れになるのだが、果たしてここにどういった意義があるのだろうか。
まず日蓮正宗や創価学会、恐らく顕正会といった組織では、この地涌の菩薩は自分達の組織や集団に属している人達だと教えている。そしてそれ以外は末法濁悪の宿業深い人達だと言っている。日蓮正宗では「本未有善(ほんみうぜん)」と言い、自分達の信仰に入っていない人達には「仏種が無い」と言い、「折伏」と言ってはそれこそが下種という仏の種を植える事で仏になれると言うのだ。そしてその下種を行えるのが地涌の菩薩だと教えている。つまりこの地涌の菩薩という存在を利用した選民思想に近い考え方を植え付けているに等しいだろう。
地涌の菩薩は法華経の従地涌出品第十五から嘱累品第二十二までの間しか出現していない。それ以前も、それ以降も出現していない菩薩である。法華経では二処三会と言い、序品第一から法師品第十まで霊鷲山を舞台として説法が展開され、見宝塔品第十一から嘱累品第二十二までが虚空会という空中が舞台となり、薬王菩薩本事品第二十三から普賢菩薩勧発品第二十八までが再び霊鷲山が舞台となり説法が展開されている。この中で虚空会の中でのみ地涌の菩薩は出現しているのだ。
日蓮はこの地涌の菩薩をどの様に捉えていたのか、如来滅後五五百歳始観心本尊抄にはこの様にある。
「地涌千界の菩薩は己心の釈尊眷属なり」
間違えていけないのは、「釈尊己心の」ではなく「己心の釈尊」と述べていることで、ここでは日蓮の心のなかにある釈尊の眷属としての自覚と言ってもいいだろう。詰まる所、釈尊滅後の後世において、この法華経の思想を掴み同意した人達の心の中に地涌の菩薩といつのは住むものであり、そこに特定の団体や組織などの垣根はない。そして日蓮は自覚の上で、その先駆けと考えていたのだろう。それが「上行菩薩の再誕」という言葉に現れているのではないだろうか。
また嘱累品第二十二において、釈迦は地涌の菩薩をはじめとした多くの菩薩達に後世の弘教を託している。そこから末法には地涌の菩薩が出現し、広宣流布するという考え方もあると思う。日蓮自身、釈迦から付嘱を受けたという自覚の下で行動したのだろう。しかし具体的な「広宣流布」という言葉が出てきたのは薬王菩薩本事品第二十三で、釈迦から広宣流布を託されたのは宿王華菩薩という、名もなき菩薩である事を知る人は少ない。よく日蓮正宗系では、末法は御本仏日蓮大聖人の時代であり、迹化菩薩(いわゆる地涌の菩薩以外)は末法広宣流布には無用という様な事を述べているが、では薬王菩薩本事品の中で広宣流布を託されたのが宿王華菩薩であるという事を、どの様に考えているのだろうか。
思うに大乗仏教、こと法華経を信仰の根幹に据える宗派であれば、そもそも日蓮が釈迦をも超越する根本仏という事を信じる事自体、これは異流義であり法華経をないがしろにした考えではないだろうか。仏教とは釈迦から始まった思想運動(この様な表現は適切かはとりあえず脇に置く)であり、大乗仏教は釈迦滅後、五百年ころにインドで発生したものであり、そこから北伝仏教とも呼ばれるが、中央アジアと中国を経て日本に伝来した思想である。そして伝来するに際しては、多くの人師・論師が思考を積み重ねて構築された思想でもある。そして大乗仏教は法華経を中心とした思想であり、その思想潮流をより社会に浸透させ、人々の中に宣揚する事が広宣流布という事であって、そこには特定の宗派や団体の興亡などと言う事は一切関係の無い事なのではないだろうか。