ちょっとこのブログの更新に間が開いていました。
日々の仕事も去ることながら、最近始めた趣味に関連して、Youtubeで関連チャンネルを見ていたり、Amazonでモノを物色していたりと、そんな事を日々やっていて、このブログの記事の更新がお座なりになっていました。でも悲しい性で思索を止めていた訳ではありません。
思うに現代社会というのは、様々なモノや情報が溢れ、そういう事に埋没してしまうと世事の事に思いを巡らす事というのは中々難しいのかもしれません。幸いにして私の場合には、思索するネタは山ほどありますので、そんな中でも思索を止めるという事は無いのです。
さて今日は「パラダイムシフト」という事について、少し考えた事を記事として書いてみたいと思います、お時間のある方はお付き合い下さい。
◆パラダイムシフトという言葉について
私の場合、この言葉は二十年程まえから、偶に耳にするようになりました。この言葉の意味は、それまでの時代では当然として考えられていた事が、劇的に変化する事を言います。これは科学史家トーマス・クーン氏が科学革命で提唱したパラダイム概念の説明で用いられたものが、拡大解釈されて一般化したものと言われています。
言葉の難しい解釈はさておいて、今世紀に入り私達人類社会では、それまで常識であった様々な事が、まるで非常識であるかの様に覆ってきました。例えば「9.11同時多発テロ」では、日常の安寧という感覚が変化をしました。駅構内にあるゴミ箱は基本的に閉鎖され、構内や道端に不審物があると人々はテロを恐れ神経質になりました。これは世界的な事ですよね。また2011.3月に発生した東日本大震災では2万人以上の方が亡くなりましたが、その事で大都市災害が何時来てもおかしく無いと言う感覚を持つようになりました。昨今では東南海地震の発生についても、多くの国民がその可能性を受け入れています。またこの時に起きた福島第一原子力発電所の事故によるメルトダウンにより、それまで過敏に放射線に対して反応していた社会が一気に鈍化しています。
もうこれだけ思い返すと、今の四十代以上の人は、20世紀末の日本社会とは感覚が異なっている事は理解できると思います。
また今世紀初めから日本政府(小泉自公政権)が「構造改革」の大合唱を興し、そこから市場原理主義が導入され、今では貧困格差も広がるだけではなく固着化し、労働者の立場というのも変わりました。簡単に言えば、それまでの社会では「正社員」というのが当然であり、派遣社員というのは一部特化した技術で、会社に縛られない生き方の人達という概念から、今では低賃金で雇用の調整弁という雇用形態を指す言葉となり、日本国内には多くの派遣会社が乱立しました。これにより企業では人件費を「経費であり損金」という認識になり、それを抑える為に派遣社員を多く雇用しています。過去の「一億総中流社会」の基盤である「終身雇用」は今では姿を消してしまいました。
世界に目を向けると、東西冷戦は終結しましたが、世界的にはその後民族紛争が激化しました。しかし今世紀に入り、世界の構造は徐々に変化を続け、その後の世界ではアメリカ・中国・ロシアが各々で覇権を競う多極化した社会となってきた様に見えるのです。しかしアメリカは過去に「世界の警察」としての役割を自負していたのが、今や国外よりも国内目線にシフトをし始め、ロシアは今回のウクライナ紛争で軍事的・経済的なお粗末さを露呈、中国に至っても国内経済のバブルがはじけ始めています。要は「米・中・露」という、それぞれの大国が個別に国内問題を抱えながらも、その国内問題を解決する為に覇権主義の姿勢を取っている様にも見えたりします。(これはあくまでも斎藤個人の感覚です)
また一昨年前からの新型コロナパンデミックにより、世界各国ではロックダウンを行いました。これにより各国の人々の生活パターンも大きく変化を起こしています。私もここ2年以上、テレワークと呼ばれる自宅内勤務を続けており、自分の職場に行くにも「交通費」をその都度請求し、出社の時間やその目的を職場上長に申請してから偶に通勤するという事になっています。また感染防止でテレワークが出来れる職種がある一方で、感染のリスクが存在する中でも日々通勤しなければならない職種もあります。また中小企業では、このパンデミックにより倒産する企業まで出てしまい、失業率も上昇し、致し方なく低賃金の仕事でしのぎを削る人達も出ています。
またこのパンデミックで勧められたワクチン接種では、多くの副反応が報告されています。これは従来ではれば十分「薬害」と呼ばれるレベルですが、それを「薬害」と声を上げる人は殆どいません。もしそんな話をしてしまうと、社会の中では「デマをまく人」「陰謀論者」というレッテルまで貼られてしまいます。
ここで思い出すのが「ボイルド・フロッグ(茹でカエル)」というたとえ話です。この言葉は、過去にこのブログで創価学会の問題を扱う際に、幾度か紹介しています。
改めて簡単に紹介すると、生きたカエルを煮えたぎる熱湯に入れると、熱くてカエルは熱湯から飛び出し逃げていきます。しかし水の中にカエルを入れて、その水に徐々に熱を加えていくと、カエルというのは逃げ出す事なく、最終的に熱湯で茹でられて死んでしまうという話です。生き物は急激な変化には、危険を感じて避難しますが、変化が少ない場合には危険性を認識する前に、その変化によって死んでしまうという話です。
思うに今の世界は、今世紀に入ってから様々な変化を起こしていますが、その変化の度合いがギリギリ人々が受容可能な変化の度合いに抑えらえて来た事から、この二十年間で結果として大きな変化をしている事を、人類社会では好むと好まざるとに関わらず受け入れて現在があるのでは無いでしょうか。
これが最近、私の感じている「パラダイムシフト」であり、この変化は止む処か、徐々にその度合いを加速している様に感じるのです。しかし多くの人達は、これまでも受け入れ可能な変化の中を、何とか生きていている事から、この変化の度合いが徐々に大きくなり、社会がいよいよ「パラダイムシフトの顕在化」を始めているのに、それを感じる神経が鈍化しているのではないでしょうか。
最近になり「CFP(カーボンフットプリント)」という言葉が出てきています。これは人類社会の中で広く浸透しているスマートフォン等のモバイルデバイスにより、その人の行動パターンを記録し、そのビッグデータの中から、各々が生活する為に排出している「炭酸ガス」をプロットし管理しようというものです。管理という言葉の先には「統制」というのが付きまといますので、当然、この先にはこのデータにより、人類一人ひとりをラベルリングし、それぞれのラベルに見合った「統制社会」という事が出現する可能性も大いにあると思います。
また少し話題を変えますが「人口削減」という話が、今のところ「陰謀論者」の界隈で語られています。この話題を出すと「何だお前、陰謀論者なのか?」という事で、色眼鏡を掛けて見られてしまいます。しかし20世紀末に、世界食糧計画(WFP)では、今の人類社会の生活様式を維持した場合、地球上にある真水の総量と耕作地の面積から、地球上でどの位の人類が食糧を得られるのかを算出したところ、約八十億人と試算が為されています。
現在の人類の総人口が七十億人を越えており、二十世紀末と比較して真水の総量や耕作地面積が増加しているとは到底考えられません。そんな人類が直面する問題を理解している世界のリーダーがいたならば、「バスコン(産児制限)」とあわせて「人口削減」というのは真剣に考えていてもおかしくありません。
そういった事が根底にあって、先の新型コロナワクチン(mRNAという過去には危険視されたワクチン)が治験不足の状況で、世界的な接種が「もし」行われたとしても、何も不思議ではないと私は思うのです。
また最近話題になっている「サル痘」やそれに伴う「ワクチン開発」も、その為の手段であったとしても不思議な事ではありません。
まあ様々書きましたが、もしこの私が感じている「パラダイムシフト」が世界的な事であり、もしこれが一部の人達が恣意的に行っていたとしても、一個人がこれに抗する事は事実上不可能でしょう。では私達はこの世界を今後、どの様に受け入れて生きて行けば良いのでしょうか。
まあ半分以上は、私の個人的な妄想が含まれる話ですが、実はいま重要な事は、こういう社会だという認識を持ち、それぞれ一人ひとりが、この先自分の人生を、どの様に生きて行くかを思索して選択していけるのか、そこなのではないでしょうか。
皆さんは如何考えますか?