私の父親は既に十数年前に鬼籍に入りました。母親は未だ健在ですが、そう遠くない日には鬼籍に入っていくでしょう。私自身もあと二十年から三十年以内には、恐らく骨壺中に入ってしまいます。そしてこれ等の事は生きていれば逃れることの出来ない事なのです。
現代社会はある意味で、徹底して「生と死」が分離されている社会です。私が過去に両親から聞いたのは、昭和二十年代の地方では、子供が生まれるのは病院でしたが、親族の看取りや葬儀は家で行われていたと聞きました。しかし現代に於いて、これは住居事情もありますが、多くの人は病院で亡くなり、その葬儀は専門の葬儀場で行われます。要は人の誕生も死も、ともに社会から隔離された施設の中で行われているのです。
私が始めて「人の死」を見たのは、二十歳の時、祖母の死でした。祖母は父親の実家で父親の兄弟家族と住んでいましたが、亡くなる三ヶ月ほど前に帰省した際、離れの部屋で寝たきりの祖母に合っていました。ただこの時には病状も進んでおり、既にまともな会話ができる状態ではなかったのです。葬儀は実家で行われていましたが、遺体は布団に寝かされており、通夜ではその遺体のある部屋の隣で親戚が集まり、酒を飲みながら昔話に興じていました。
「人は死ぬと何か小さくなるし、遺体も何か蝋人形みたいだな」
これが当時の感想でした。
それからも先輩や身内、そして実父の葬儀なども経験してきましたが、やはり同じ感想を抱きました。そして何れは自分も同じような姿となる日が来ることを考えたりもしたのです。
仏教では「四有」という考え方があります。
「生有」とは、この世界に誕生する事を言います。そして「本有」はこの世界で生きて生活している事を言い、「死有」とは死に行く事を言います。そして「死有」から次の「生有」までの間を「中有」と呼んでいるのです。
人はこの「生有」「本有」「死有」「中有」というサイクルを繰り返しながら、輪廻転生を繰り返していくというのが、仏教で説かれています。原始仏教では輪廻転生を否定しているとか聞きますが、少なくとも大乗仏教では、人はこのサイクルを繰り返すと説いているのです。
そしてこれを見ると解りますが、「死有」はこの転生サイクル組み込まれています。つまり当たり前の事ですが、人にとっては不可避であり、重要な人生の中の出来事であるという事が、この「四有」を見ると解るのです。
私達の社会では、先程も書きましたが「生(誕生)」も「死(死去)」も、日常社会からは隔離されています。そして人々は日々の雑事のなかで、この人生のプロセスについては意識をすることがありません。特に「死」については忌み嫌われるものでもあるので、日常生活の中では考えることすらないでしょう。
人はなぜ、この様に人生のプロセスである「死」を忌み嫌うのか。そこには様々な考え方がありますが、一つにはこの「死」というものが、否応もなく人に対して「無常」という現実を突きつけるからだと言われています。
「無常」とは「常ならざる」を意味していますが、要はこの世界の中に「永遠不変」のものは存在しないという事です。如何なる富豪であろうが、どの様な権力者であろうが、この理からは逃れることは出来ません。この世界は常に変化しており止まる事がないので、どの様に財を蓄えようと、権力を持ち得たとしても、自分自身の肉体が老いていき、そこに病を得て、この世界から消えてしまう存在という事を変えることは出来ません。
秦の始皇帝は権力を極めると「不老不死」を求め、現代の大富豪は財に任せて様々なアンチエイジングに取り組んでいますが、どんな手段を講じたとしても、「死」の来訪時期を送らせる事しかできず、この「無常」という理から逃れることは出来ないのです。
人が死ぬ時、そこまでの人生で得た地位や名誉、財産や人脈、また家族兄弟に至るまで、全てを手放さなければならないのです。要はそれまで生きてきて、得たもの全てを手放さなければならなくなるのです、そしてそこに例外は一つもありません。これが人々が「死」を忌み嫌う根本にあるのではないでしょうか。
鎌倉時代の僧、日蓮も残した御書随所「臨終正念」という言葉があります。この言葉の意味は、常に臨終(死)は身近にあるので、瞬間瞬間、それを意識した心構えを持ち、生活するという事を言います。過去に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とありましたが、この言葉にも通じる事があるでしょう。
人は「死」を忌み嫌います。しかし死は不可避であり、人は無意識に死を忘れて生活する傾向があります。仏教の死生観にはこの「死」を見つめ、そのにある無常観を理解し、もっていまある人生を有意に生きるべきだという考え方があると思います。
私も最近になり、時間のある時敢えて「自分の死」という事を考え始めていますが、そうする事で、生き方や時間の使い方が少し変化してきた様に感じます。また周辺にいる人たちへの思いや対応も変わってくるのかもしれませんね。こういう事も「信仰」の一つとしては、とても大事なのではありませんか?
私はそんな風に仏教死生観を、最近になって捉えています。