本日は、大雨の中、husと映画館に行って来ました。
実は、彼とはあまり一緒に行きたくなかったんですが、
前売りにも一緒に並んでくれてし(^_^;)、
私は!映画を観に行く、と言ったのに対して、全く抵抗なく俺も行く、と反応でしたのでね。
お互い、過去の傷ににはあまり触れたくないもんで、
鑑賞後は内容について深く語らず。
でも、映画の最後のシーンについては、原作とは違うと。そこだけ、食いついてきたので、原作のシーンを説明しときましたけど。
さてさて、ナラタージュ。
行貞監督が語るには、
「恋ではなかったと思う」という葉山先生のセリフ、
松本潤さまとコレは葉山の本心か?と議論したそうですね。
原作を読んでる身としては、私の解釈では、
葉山先生は絶対いずみを好きだったはず。
だから、あの時の葉山先生は、
いずみをもう放す為、そして自分自身に言い聞かせる為に、彼女を突き放す言葉を使ったのかと思う。
東京へ帰ってやり直す、と決めたから。
決めたから、たとえいずみに対して未練があっても
奥さんという十字架を背負うつもりであったに違いないとおもうのです。
潤さまはどう解釈したのかなあ。
インタビューとかから想像すると、
彼女を自分から送り出すつもりの、葉山先生のウソだと解釈してるように思うなあ。
あの浜辺でのやり取りの後、映画の中では、
葉山先生のお家に行って、いずみと最初で最後の逢瀬。
恋ではなかったなら、葉山先生があんな状況を受け入れるわけはない、と思いたい。
あそこには紛れもなく、愛情があったはず。
僕は君を幸せにする人間ではないけれど、
君の幸せを願っていると。
汽車の中のいずみを見送る葉山先生は、
いずみの幸せを願う愛情と、二人の訣別を期す、
両方の気持ちで立っていたのかなあ。
東京のどこかで暮らしているであろう、葉山夫妻。
同じ過ちを繰り返さないように、葉山先生はきっと穏やかに注意深く奥さんと住んでるんだろうなあ。
そこに、静かな幸せを感じているのだろうか。
想い出の中にいずみを閉じ込めて生きて行くのだろうか。
実は、彼とはあまり一緒に行きたくなかったんですが、
前売りにも一緒に並んでくれてし(^_^;)、
私は!映画を観に行く、と言ったのに対して、全く抵抗なく俺も行く、と反応でしたのでね。
お互い、過去の傷ににはあまり触れたくないもんで、
鑑賞後は内容について深く語らず。
でも、映画の最後のシーンについては、原作とは違うと。そこだけ、食いついてきたので、原作のシーンを説明しときましたけど。
さてさて、ナラタージュ。
行貞監督が語るには、
「恋ではなかったと思う」という葉山先生のセリフ、
松本潤さまとコレは葉山の本心か?と議論したそうですね。
原作を読んでる身としては、私の解釈では、
葉山先生は絶対いずみを好きだったはず。
だから、あの時の葉山先生は、
いずみをもう放す為、そして自分自身に言い聞かせる為に、彼女を突き放す言葉を使ったのかと思う。
東京へ帰ってやり直す、と決めたから。
決めたから、たとえいずみに対して未練があっても
奥さんという十字架を背負うつもりであったに違いないとおもうのです。
潤さまはどう解釈したのかなあ。
インタビューとかから想像すると、
彼女を自分から送り出すつもりの、葉山先生のウソだと解釈してるように思うなあ。
あの浜辺でのやり取りの後、映画の中では、
葉山先生のお家に行って、いずみと最初で最後の逢瀬。
恋ではなかったなら、葉山先生があんな状況を受け入れるわけはない、と思いたい。
あそこには紛れもなく、愛情があったはず。
僕は君を幸せにする人間ではないけれど、
君の幸せを願っていると。
汽車の中のいずみを見送る葉山先生は、
いずみの幸せを願う愛情と、二人の訣別を期す、
両方の気持ちで立っていたのかなあ。
東京のどこかで暮らしているであろう、葉山夫妻。
同じ過ちを繰り返さないように、葉山先生はきっと穏やかに注意深く奥さんと住んでるんだろうなあ。
そこに、静かな幸せを感じているのだろうか。
想い出の中にいずみを閉じ込めて生きて行くのだろうか。