金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代の暦はシュメール文明に先行していたのか

    年表を追加しました。2022.02.25   内容を改訂 2022.03.15  初稿投稿 2021.07.18

現在の歴史学が“世界最古”とする文明はシュメール文明です。そしてこれは三内丸山遺跡と同時期になるようです。
しかし、これに先行するのは縄文前期のストーンサークルを持つ阿久遺跡です。ここでは蓼科山に向けての祭祀が行われていたとされており、それには太陽暦の存在が前提になるものと考えます。
また、日本の縄文前期の遺跡からは12000年前の稲作の痕跡であるプラントオパールが発見されていますから、日本にあった古代文明の方が遥かに古い可能性があると云われる。

 

そうなると、シュメール文明と縄文人の関係はどうなるのでしょうか。
というのはシュメール人たちは、数多くの謎を持っていたから。
シュメール人はどこから来たのか分かっていない、発展してきた歴史経緯が分らないというから。

それは特に噴火により九州から逃げ出した縄文人と関係するものなのだろうかということ。
 縄文時代早期と前期の境目の時期に、九州南方の鬼界カルデラが大噴火を起こし、日本列島全域に火山灰が降り積もるなどの被害で西日本は壊滅的だったようです。
7300年前の鬼界カルデラ噴火の時は緊急的に海外に避難したようでだが、
5500年前の阿多カルデラ噴火の時は海外で土器が見つかるなど、九州から計画的に海外に移住しているようであるという。つまり、前期までに縄文人は外洋航海の技術を得ていて、広く拡散できたと考えられている。当時としては縄文人は世界トップレベルの高度文化を保持していたようで、噴火に追われて列島内はもちろん、遠く中東までも拡散して行っていたと考えても良いようだ。縄文人はマダガスカルまで行っていたと云われているから、遠洋航海していた可能性はあるのでは。 因みにシュメール文明の立地は九州とほぼ同緯度にあり、移住先としては、気候的に最適と感じるこの地まで探し求めて行ったのだろうか。
シュメール人は、膠着語を使っており、周囲からは孤立した文化を持っていたようで、日本人が縄文人を祖先として、言語や文化を継承しているという前提の元に、
シュメール人と縄文人は、かなり近い文化を持っていたものと推察する。

縄文時代Earlyとメソポタミアを対照するため、年表を追加しました。2023.07.14

 

シュメール人は暦を世界で最初に作ったとされているが、縄文土器に残されていた記録から、縄文時代前期の縄文人は、二至二分の暦を開発していたと考えているので、この暦の知識からシュメール人が二至二分の暦を進化させ、更に都市文明の中では、暑い昼よりも涼しい夜が好ましく、月の周期を取り入れることで、都市での人間の生活に便利な太陰太陽暦を作ったのだろうと考えている。
一方田園にあった縄文人は二至二分の暦から、金生遺跡の縄文人は四立八節の暦を考案することで、さらに季節感を明確に捉えて、狩猟農耕に便利な二十四節気の暦を開発することで、シュメールの都市生活の暦とは対照的な暦に進化をさせたと考えている。

2023.07.05  年表追加しました

 

 

      図に縄文時代の暦開発の経過を追加しました。

図はお借りしました

引用します---
そんなシュメール人たちは、数多くの謎を持っていました。
どこから来たのか分かっていない
古代メソポタミア文明を、さらに遡るとウルク文化に行き着きます。
ウルク文化の初期は紀元前3900年とされていて、その後文明が栄えて行くのですが、シュメールの言語や文化は、周囲の地域とは全く違っていたものでした。
近隣の文化などとは、多少の共通点が見つかりそうなものですが、シュメール語は独立しています。
もともと住んでいたのではなく、移住して来たとされていますが、俗に言う「シュメル人問題」「シュメール問題」とされていて、どこから来たのか不明です。
また、一説にはキエンギ地域に住み着いたとするのは、東から来た人ともされていて、モンゴロイドであった可能性もあります。
ですが、実際にどうだったのかは謎のままとなっています。
どんな民族だったのかも分かっていない
シュメール人たちがどのような生活をしていたのか、どんな人生を送っていたのかなど、詳しいことまでは分かっていません。
さすがに、最古の文化だけあって、物質的に風化してしまった部分も多くあるかと思います。
絵文字を作ったとされていて、文章での記録が残っているから、多少読み取ることはできていますが、やはり全貌までは難しいようですね。
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メソポタミア南部に登場したシュメール人は、極めて謎の多い民族です。
この地域では、紀元前8000年頃には原始農耕が始まっていましたが、シュメール人はそこから発生した民族ではなく、いきなり何処からかやってきた人達なのだそうです。そして、その後何処に行ったのか不明なのだそうです。
彼らの楔形文字は、周辺の土着の民族とは明らかに違う言語であり、民族系統は未だに不詳です。
興味深い事に、このシュメール語、実は日本語と同じ膠着語に分類されている
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シュメール文明は海洋民族によって築かれたといわれていますが、それはシュメール語の7割が漁労の言葉が含まれるからと言われているそうです。シュメール文明はメソポタミア平原を流れるユーフラテス川とチグリス川をまたぐように広がっていますが、元々この平野にはウバイド族という勤勉で規律正しい農耕民族が住んでいて、合流して都市を築いたようですね!主に海洋民族を中心にシュメールのことが書いてありました。
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さらにいうと、シュメール語は、どのヨーロッパ系語族とも異なる構文を持ち、このため一般に言語系統が不明とされています。
ではシュメール語がどのような構文を持つのかというと、なんとこれが日本語と同じ膠着語であり、日本語と同じ主語・目的語・動詞という順番で話されるSOV型言語です。しかも日本語と同様、冠詞がない。

シュメールはおよそ7?8千年前からはじまったとされますが、残念なことに、シュメール以前の文明の痕跡、もしくは、その痕跡がシュメール文明に至るまでの過程を証明する遺跡がありません。
逆に日本では、およそ4万年前からの文明の蓄積が確認されていることにくわえ、日本人(倭人)が海洋民族であれば、船に乗ってどこまでも行くし、着いた各地に文明をもたらしたとしても、何ら不思議ではないし、そのように考えることが合理的だからです。
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シュメール語
【20世紀になって欧米考古学者、言語学者、オリエント史学者によって解読され始めた】
シュメール人の文字と言語は、次のようなことが明らかになっている。
【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した
【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ
【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す
   (シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)
【4】シュメール語は膠着語である

※ 日本人は漢字仮名まじり文章で生活しており、日本語の文法は膠着語(にかわで接着するの意で、テニヲハの接着語によって単語がぺったりとくっつくさまを示す)系統に属する。さらに日本語は、母音が非常に強調される特色がある。
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縄文文明とメソポタミア文明の關係は?https: //ameblo.jp/ooyashima1208/entry-12604455544.html
…四大文明の中でも最初に出現したとされるメソポタミア文明であるが、新石器時代に突然出現したことになっているのは本當なのか!?と思っていたら、最近の研究では、メソポタミア文明に先立ち、ウバイド文化というものが、メソポタミア地方にはあったようだ。おおよそ七千年前、日本では縄文時代中期頃、灌漑農業、彩色土器、銅器等を特徴とするウバイド文化が、始まったという。それが進化發展して、メソポタミア文明になったようだ。これら、ウバイド文化からメソポタミア文明の担い手は、シュメール人とされる。このシュメール人が、それ以前、どこでどのような生活をしていたかは、不明とされているようだ。

 さて、ここで気になるのが、ウバイド文化よりもさらに前の時代から、我が國で榮えていた、縄文(時代)文明との關係である。縄文文明は、一万数千年前に始まった、世界最古の土器文明だ。また、縄文時代に作られた土偶と、シュメール人が作った偶像との類似性を指摘する聲もある。--中略--
縄文文明とシュメールすなわちウバイド・メソポタミア文明との關係性は、より深く研究されていい気がする。同じ種族が移動したのではないかもしれぬが、何らかの形で兩文明の交流伝播があった可能性もあるのではなかろうか。
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このシュメール人が謎の民族とも呼ばれることがあるのは、その言語的な民族系統が現在でも不明なことにあるのかも知れません。紀元前2,600年の楔形文字が解読されたことにより、かつて古代にシュメール語が使われていたことが発見されました。この楔形文字が刻まれた粘土板の出土品は、紀元前3,400年のものまで時代を遡ることができます。

この古代シュメール語は分類上は膠着語というもので、単語の前後に接頭辞や接尾辞を付けることで変化させるものです。日本語もこの膠着語なのですが、シュメール語はその膠着語の分類のなかでも同じ系統と考えられる言語が現在も発見されていません。

シュメール人の都市国家圏には、アラビア半島から北アフリカにかけての地域で話されているセム語を話す人びとも住んでいたとされますが、シュメール語とセム語には系統的な関係はないそうです。つまりシュメール人とは、現在この一帯に住むアラビア人とは異なる系統の言葉を話す人たちだったということになります。
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メソポタミア南部に登場したシュメール人は、極めて謎の多い民族です。
この地域では、紀元前8000年頃には原始農耕が始まっていましたが、シュメール人はそこから発生した民族ではなく、いきなり何処からかやってきた人達なのだそうです。そして、その後何処に行ったのか不明なのだそうです。
彼らの楔形文字は、周辺の土着の民族とは明らかに違う言語であり、民族系統は未だに不詳です。
興味深い事に、このシュメール語、実は日本語と同じ膠着語に分類されている
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発達した天文学・太陰暦
天文学が発達したのは、作物を栽培するにあたって季節や時間を知る必要があった事、またチグリス・ユーフラテス川の氾濫の時期を知る為に必要なことでした。 また、メソポタミア地方の夏は暑く寝苦しいので、人々は涼を取るために、夜は家の屋上で寝ていたので、星空をよく観察できた事にあると思います。

先ずは、1日ですが太陽が昇り、沈み、また昇るのが基本の単位であります。 夜空で最も大きな星は月であり、満月になったり三日月になったりと、変化が大きくあるので、シュメールの人々は、月の変化で時間を知る暦(こよみ)をつくりました。 これが太陰暦です。 

新月・上弦の月・満月・下弦の月が一つのサイクルとなり、その変化の間が約7日、これが4回あるので、一ケ月は28日です。 そして、それぞれの日に守護星をつけたのが、日(太陽)、月(月)、火(火星)、水(水星)、木(木星)、金(金星)であり、この7日を一つの単位とするのが一週間で、上記のような曜日という物が考え出されました。
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【ウバイド人が原住民】
メソポタミア地方での最初の農耕はザグロス山脈(北イラクとイランの間)の山麓で雨水に頼る原始農耕(天水農耕)が10000年前には始まっていたが、8500年前に中部メソポタミアで灌漑農耕が発生しミニ氷河期が始まる7900年前には最初の定住跡が確認、7000年前にはバビロニアの乾燥地帯で灌漑農耕が定着し安定した収穫を得るようになった。ウバイド期と呼ばれるこの時期には既に大きな町が成立し、原シュメール人がメソポタミアに進出する前にウバイド人が彩陶土器による発達した文化を形成していた。長頭のウバイド人はセム族ともシュメール族とも異なりこの地に最初に定住した黒人の一派ではないかと思われる。その人口は2500人から4000人と言われており、すでに原シュメール人が来る前から灌漑農耕を行なっていた形跡がある。

【シュメール人の起源】
原シュメール人がメソポタミアに到達したのは6500年前という説があり、戦争の痕跡がない事から先住のウバイド人と平和的に混血融和してシュメール人を形成したと思われる。神話体系の構築を通じて自らが神官となり、次第にウバイド人を配下においていった。
灌漑農耕はウバイド人が作り出したという説と原シュメール人が持ち込んだという説が有るが、灌漑農耕を用いなければ不可能だった南メソポタミアに都市を作ったのが6300年前以降という年代からして既に天文的知識を有し、土木技術をもっていた原シュメール人がウバイド人の技術を吸収しそれを拡大した可能性が高い。その後、6000年前頃にはシュメール人はすでにアフリカやイラクとの交易網を拡大しており、これをウルク・エキスパンションと呼んでシュメール人が交易を主体として発展していった事を指す。交易の発展は銅鉱・木材・石材・貴石・瀝青を輸入し、穀物・ナツメ椰子・繊維品を輸出していた。この頃温暖化はピーク、海面は急上昇した。


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コメント一覧

johmonkinseistar
コメント有り難うございます。
同意いただいた、縄文人のシュメールへの移住が、暦以外にもう少し何かが出て欲しいと思っています。シュメールの歴史にも遺物にも詳しくないのでなかなか難しいです。
その後、縄紋土器の模様付け方法との関係から その3 として投稿しました。
安藤 毅
私も縄文人、縄文文化に興味があり色々の史料を読んでいます。
貴方の説には全く同意です。
シュメール人は鬼界カルデラの噴火を逃れて、大陸へ移動した縄文人であると思っています。
メソポタミア文明を発展させたのは、正に縄文人でしょう。
そしてシュメール王朝の人々が行方不明なのは、戦いを嫌い、太陽の一番先に昇る、自分たちの祖国へ戻ったからでしょう。
日本人は太古より、大事な事は口伝で伝てきており、シュメール王朝の人々も、日の本という素晴らしい祖国がある事を知っていた
のでしょう。
海路で日本に到着してから彼らは、より早く日が登る東へ東へと移動して、東に向け突き出しそれから先は北へ向かう、銚子半島の先に
定住したのだと思います。
そこが田中英道先生のおっしゃる高天原でしょう。
先住の縄文人集落とも協調し、指導力を発揮した結果として、後の天皇家となったのだと考えます。
そして、陸路で遅れて九州南部にシュメール人民が到着するのですが、その当時中国では争いが絶えず、逃れた好戦的な中国人に
身の危険を感じていた。
そこで、高天原から南九州へ天孫降臨して人民を護り、組織を安定していった後、神武東征となったのでしょう。
そして、シュメール人の子孫でカナンへ移住したユダヤ人が、ローマ帝国に国を奪われ、離散するが、一部の人達は東へ向かう。
現在のキルギスも、別途大陸へ渡り夏に仕え、後に殷をつくった縄文人が、周に滅ぼされて移った人々で、ユダヤ人とも同じ先祖を
もつことから、協調して弓月国をつくった。
その後、東へ移動して秦の始皇帝の父親に仕えたのが呂不韋で、その呂不韋の妾に惚れ込んだ始皇帝の父は譲り受け、そして始皇帝が
誕生した。
しかし、すでに呂不韋の種が入っていた為、始皇帝は呂不韋の子供でユダヤ人の血をひく。
秦が滅亡後、ユダヤ人の末裔は朝鮮半島に移動して、百済を治めるようになる。
そして、弓月の君と称された秦氏の祖が、応神天皇の代に大勢の人民を引き連れて日本へ移住してきた。
もちろん、彼らは天皇家が元のシュメール王朝であり、ユダヤ人の祖先である事を突き止めていた為です。
だから、きつい一神教のユダヤ人の彼らが簡単に日本古来の神道に鞍替え出来、秦氏たちは天皇家に
忠実に仕え、文化、技術の発展に貢献したのです。
これが私の私見でございます。
長々とお邪魔いたしました。
お読みいただきありがとうございます。
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