数学の進化過程を遡る
ホモサピエンス 4万年の数学歴史
数の概念はどのようにして生まれてきたのか
シュメールまでの数認識始まりの歴史は未だに霧の中にある
図 数認識の始まりについて
「文明の始まり=数学の歴史の始まり」
数学史 ―数学5000年の歩み― 単行本 ? 2014/11/22
中村 滋 (著), 室井 和男 (著)
この本の書評を見たことから
後期旧石器時代、この時代こそ、私たちの祖先ホモ・サピエンスが海を越え日本列島に到来・定着した時代とされている。ホモ・サピエンスは30万年~20万年前にアフリカで誕生し、8万年~5万年前にアフリカから世界中へ拡散を開始します。約4万5千年前にはヨーロッパや中央アジア・オーストラリアへ到達し、約3万8千年前に朝鮮半島から海を越えて日本列島へ到来したとされている。
日本列島の数学の始まりはどのようだったのか考えて見ました。
もちろんそれは古代史上で世界で初めて数学が誕生した時のことです。
図 縄文時代の数 突起土器の年表
縄文時代早期から突起土器が造られるようになり、時代変化と共に突起数は変化していた。
突起数は 1,2,4,6、8、12、3、5、7 という数列を示している。
自然数列とは違って 3,5、7 などが自然な数列と違う現れ方をしていた。
これは単なる数列では無く、暗号を示していると理解出来る。この時期に既に高度な数学を持っていたものと理解出来る。
図 金生遺跡での日の出観測
金生遺跡では茅が岳の峰からの日の出が正確に立春を示していた。遺跡内の配石では、石棒によりこの立春の日の出を観測していた。既に太陽暦を持っていたと推測できる。
図 立春と立秋の日の出観測
二十四節気の暦の立秋点も観測していることから、これによりこの時期既に二十四節気の暦を持っていたと推測できる。それは中里貝塚の超巨大な貝塚から、中期には月と太陽の周期をもとに同期させるカレンダーを持つて居たことも推測できる。
図 神子柴遺跡の衝撃
図 神子柴遺跡の石器集散、会合
神子柴遺跡では、100キロメートルを越えて石斧と両面加工尖頭器の集散と会合が行われていた。これを可能とするには月齢の暦が必要と考える。それは月齢の30を示す数学が理解されていたものと考える。
図 環状ブロック群
図 日本列島での環状ブロック群の分布
図 環状ブロック群とは テント村
図 環状ブロック群の石器
刃部磨製石斧以外には道具として数え上げるような石器は見当たらないように感じてしまう。指で差して石器の数を数えるとして、いくつになるものだろうか。自分の財産として数え上げるとしたら果たして幾つ上げられるだろうか。
40000年前、ここが数認識の始まりでは無いだろうか。
38000年前の後期旧石器時代、長野から北関東にかけて
大規模集落(最大で70~80人とも)跡と推定される環状ブロック遺跡群がある
環状ブロック群(かんじょうブロックぐん)とは、日本列島の後期旧石器時代初期(約4万年前~3万年前)の遺跡から検出される旧石器人の集団キャンプ跡と考えられる遺構である。
石器を製作する際に飛散したブロックと呼ばれる剥片集中域が、複数かつ環状(円形)に分布して検出されるもので、当時の人々の生活・居住の実態に迫る遺構として知られる。環状ユニットともいう。
日本列島の後期旧石器文化前半期を特徴づける遺跡で、
環状ブロック群は、石器製作跡であるブロックが多数集まり、
大きく円を描いて分布することを定義とする大型集落の一形態で、
ブロック周囲には焚き火跡とみられる炭化物集中部も分布している。
38000年前の日本列島には、
世界最古級の磨製石器(アジアの伝統的な技法を使った局部磨製石斧)、
世界最古の集落(環状ブロック遺跡群)、
世界最古の罠猟(落とし穴)、
世界最古の海洋航海の証拠(神津島黒曜石の本州搬入)、
世界最古のゾウ解体の証拠(野尻湖遺跡)、
など、人類が初めて文化的な活動を開始した痕跡が見られ、
図 日本列島の旧石器時代の遺跡
日本列島には世界の後期旧石器時代遺跡の大半を占める14500箇所の遺跡がこれまでに発見されています。
「環状ブロック群」は「陥穴(おとしあな)」「刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)」と並ぶ日本旧石器時代の3大特徴であり、
世界史的に見ても例を見ない日本独自の旧石器文化のひとつとされ、日本の旧石器時代を考える上で欠かすことのできない遺跡です。
環状石器ブロック群・磨製石斧・落し穴遺構は、ユーラシア・アフリカ大陸の旧石器時代には、殆ど類例を見ません。
つまり環状ブロック群という遺跡、これは日本列島だけの特別な遺跡で有り、この時期に世界の何処にもそれに当たるような遺跡は見付かっていない。
環状ブロックは北海道、琉球列島を除く日本列島のほぼ全域に認められ、武蔵野台地では第X層段階では確認されず、第IX層段階の特徴である。
また日本のEUP期の陥し穴は、年代的に世界最古の例で罠による猟は「現生人類型行動」の証左とも言われ、武蔵野台地の第VII層段階に相当する。
環状ブロック群からは刃部磨製石斧と共に砥石が出ている。
37500年前には、太平洋の黒潮を超えて神津島へ航海するなど広範な交易ネットワークを構築していました。
伊豆諸島神津島の黒曜石が、長野に運び込まれています。
これは磨製石斧により丸木舟が作られて、外海に進出していた証拠とされている。
これらの遺物検出状況から、スポット(1つの石器製作を行った個人)→ブロック(数人で石器製作の作業場を構成する1家族)→ユニット(母岩を共有し共に生活・移動する数家族からなる小単位集団)→環状ブロック群等大遺跡(仲間意識のある小集団が一堂に会した大単位集団)という旧石器人の社会と構造が推定されている。
後期旧石器時代全般を通じての集落や社会構造については不明な点も多いが、環状ブロック群では50人から100人ほど、国内最大規模をもつ千葉県印旛郡酒々井町の墨古沢遺跡の例では、100人から150人ほどの人間が一堂に会していたと推定されている。
図 数認識の始まり
図 メソポタミア シュメール文明までの歴史
引用しますーーーーーーー
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130604/352966/?P=3
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