細石器から石鏃への進化
図 石鏃開発時期の年表 図はお借りして補足しています
弓矢猟は20000年前頃から15000年前頃までに開発されたのでは無いか。年代は資料により異なるので正確では無い。
図 両面調整尖頭器と細石器
信濃川流域では、ナイフ型尖頭器から両面調整尖頭器が開発されてサケ漁が効率的に行われるようになった。信濃川より北の地域にはサケ漁のためにこの両面調整尖頭器が広がったものと思う。この地域ではその後、有茎尖頭器が作られるようになり、さらに小型の有茎尖頭器が作られていて、投げ槍さらには投げ槍具が使われるようになったのでは無いか。
信濃川より南の地域では、サケ漁とは異なる小型動物の狩猟が主に行われ弓矢の開発が始まっていたものではないか。初めは矢の先には、矢出川技法の細石器の鏃が付けられていたのでは無いか。
図 細石器の列島内分布
図 細石器の時期
細石器は北海道と東北地方から信濃川流域付近まで湧別技法という長さの大きい細石器が作られていた
それより南では矢出川技法という小さな細石器が作られていた
これは時期的に湧別技法の時期からは20000年前頃と大きく外れていたようであり、弓矢開発に重なる時期になる
弓矢の開発が始まって矢出川技法の細石器が作られるようになったのでは無いか。
図 隆起線文土器と爪形文土器 図中の5が細石器を表すものでは無いか
弓の弦は比較的早期に完成していた
しかし、矢の先端に付ける鏃は細石器を使っていたが、どんな形のものを付けたら良いのか
試行錯誤が続けられたものと考える。
図 隆起線文と爪形文の共存
花見山遺跡からは隆起線文と爪形文の共存が出ていて
これに付けられている文様は、細石器の鏃を表しているのでは無いか
2024.10.08 ***その後の調査から、爪形文土器には爪形に二種類あるとされているようであり、
やじりとして用いた細石器と石鏃の違いに当たるのでは無いかと考える。
図 石鏃と爪形文土器
細石器から様々な形のものを作りだして、最後に三角形のものに辿り着いたのではないか
図 石鏃の多様性
それから現在多く見られる石鏃が作られるようになったものと思う
これを作る技術には両面調整尖頭器の技術が利用されたものと考える。
図 有茎尖頭器と石鏃の混在の背景
狩猟採集民の遊動性はかなり大きく、石材原石や細石器と石鏃、小型有茎尖頭器は混在している
初稿ーーーーーー2024.09.05
石鏃製作のための技術は何処で開発されたものなのか。
この技術は打製石器と云えるのか。
それについてこれから記載して行きたい。
石鏃の開発
新石器時代の始まりとは
図 両面加工尖頭器の開発
新石器時代は両面加工尖頭器の開発から始まった
その後の石鏃開発
石鏃と両面加工尖頭器とは、両者はほぼ同じ加工技術
両面加工技術が先で、石鏃はずっと遅れて開発されたようだ
図 石鏃年表
石鏃は群馬・長野地域で開発されたのではないか
図 三内丸山の有茎石鏃
石鏃の開発は、信濃川沿いのサケ漁に利用するための、両面加工ポイント、有茎尖頭器などとは別の系列
有茎石鏃は作業工数も多く、1/3程重く非効率なもの
北海道や三内丸山の有茎石鏃は、前期後半から中期の時期にも存在するとみられるので、この時期になってもまだ三内丸山遺跡では有茎石鏃が作り続けられていたようだ
アメリカ大陸からもこの系統の石器が出ている
新しい狩猟道具である弓の開発には時間が掛かった
弓が先ず開発されたが、矢の開発、石鏃開発にはさらに時間が掛かった
矢の先の鏃には、初めは細石器を矢に装着していたものと思う
細石器にさらに加工を加えるのに、両面加工技術を利用することで作ることが出来た
図 石鏃と爪形文土器
爪形文土器とは、石鏃で土器表面に文様を付けたもので、石鏃完成を祝って土器に記録していたものと考える
図 隆起線文土器
弓の完成は弦の開発であり、弦の開発が出来たことを、隆起線文土器として記録していた
ーーーーーー 2022.11.12 初稿は以下
尖頭器とは、魚の鱗のような小さな剥片を繰り返し剥がして整形し、木の葉形を呈するように作り上げた石槍(の先端部)のことで、サイズは10センチ以下が多い。
中部・関東地域においては、ナイフ形石器群が小型化し、細石刃石器群が登場する頃までの、後半期後葉にこのような尖頭器が製作される。両面調整の槍先形尖頭器と共に縄文草創期から登場する長脚鏃・三角鏃などが製作されていた。伴出した鍬形鏃は縄文早期に広く使用され、時代を特定できる史料である。
という
小型尖頭器が作られるようになり、その技術の延長線上に石鏃が開発されていったのでは無いか
今は諏訪湖底にあるが、曽根遺跡は石鏃製作所
曽根遺跡はその多量な黒曜石の石鏃の出土から、石鏃製作場を主とした址と考えられている。
旧石器時代や縄文時代を通して剥片石器の代表的素材に黒曜石とサヌカイトがある。
ともに産出地は限られていて、希少な石材・石器製品として交易の対象になっていた。
曽根遺跡は石鏃開発地で、石鏃製作の先進地となっていたのでは無いだろうか。
ということはこの地域で弓矢の開発が行われたのでは無いだろうか。
石鏃の進化
下から上へ時代的に新しくなる
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
弓矢と槍の中間的な機能を果たした投げ槍(槍先形尖頭器)は弓矢の普及によって消滅していく。
弓と矢柄は、旧石器時代晩期のものがヨーロッパで若干発見されている。
ナイフ形石器・槍先形尖頭器・細石器と続く3階梯は、関東・中部地方には当てはまるが、北海道にはナイフ形石器と槍先形尖頭器がなく、九州地方では槍先形尖頭器が見当たらない。
ーーーーーーーーーーーーーー
関東・中部の特殊性
「ナイフ形石器」と細石刃がほぼ列島内全域に展開したのに対し、
尖頭器石器群は東日本でも特に中部地域・関東地域において地域的な発展を見せる。
尖頭器とは、魚の鱗のような小さな剥片を繰り返し剥がして整形し、木の葉形を呈するように作り上げた石槍(の先端部)のことで、サイズは10センチ以下が多い。
中部・関東地域においては、ナイフ形石器群が小型化し、細石刃石器群が登場する頃までの、後半期後葉にこのような尖頭器が製作される。
ーーーーーーーーーーーーーー
ナイフ形石器は日本列島で発達した石器で、日本では後期旧石器時代晩期の両刃の槍先形尖頭器と区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。狩猟を用途とするナイフ形石器で、突き槍・投げ槍として使われた。やがて2万3千年前頃からより強度な角錐状石器が登場する。朝鮮半島、全羅北道任実郡(イムシル=グン)でも出土している。強靭な獣皮を貫く槍先が誕生した。従来型のナイフ形石器は、次第に小型化し投げ槍用とされた。それが更に小型化され組み合わせ槍の側刃器となる細石器が替え刃となる投げ槍が工夫されると衰退・消滅した。
関東地方の投げ槍は、ナイフ形石器が画期となり浸透したが、より強靭な角錐状石器となり、ついで2万年前頃、木の葉形の槍先尖頭器となり、次第に大型化し主に突き槍として縄文時代を迎える。
細石器はより有効な弓矢の伝来により、取って代わられた。九州や北海道では弓矢の伝播が遅れ細石器文化が長く続いた。
ーーーーーーーーーーーーーー
棚畑遺跡 石器は縄文早期の特徴をよく備えた石鏃が、配石遺構一帯から73点出土した。
鍬形鏃・その他の剥片鏃などで2.6cmにも満たない小ささだが精巧な作りであった。
鍬形鏃は諏訪湖の湖底に遺存する曽根遺跡からも出土し、縄文早期と特定できる数少ない史料となっている。また3㎝以下の粗い両面調整の尖頭器形の石鏃も曽根遺跡同様出土している。恐らく石鏃が登場した初期のものと思われる。
ーーーーーーーーーーーーーー
縄文時代早期になると、石鏃は基部に三角形の深い抉(えぐ)りを入れた形が多く、一部を磨く局部磨製石鏃(きょくぶませいせきぞく)が加わります。後半には基部の抉(えぐ)りが長方形をなす鍬形鏃(くわがたぞく)と呼ばれる石鏃が特徴的です。また、つまみ状の突起をつくり出した石匙(いしさじ)と呼ばれる石器が出現します。石匙は突起部に紐などを付けて携行した万能ナイフと考えられ、縄文時代を 通して出土する特徴的な石器です。
ーーーーーーーーーーーーーー
(草創期)
ほとんどが小形での凹基無茎鏃および平基無茎鏃であり、尖頭器や有舌尖頭器とともに発見されている。有茎鏃もごくまれにみられるが、これは有舌尖頭器における舌部製作の伝統が石鏃の一部に影響を与えたもののようで、検出例は少なく茎部を作るものは縄文時代前期まで一時的に途切れる。柳葉形の尖基鏃は数少ないながらも存在する。
(早期)
縄文時代草創期から早期の石鏃は、基部のえぐりこみが極度に深く、両端が長い脚となるような長脚鏃や基部のえぐり方が独特な鍬形鏃、さらに石鏃の一部を磨いた局部磨製石鏃、鏃身の両側縁が段をなし五角形の形状をなすものなど特徴が多い。特殊な石鏃の一つに北海道東北部の縄文早期の一部に限定されて検出される石刃鏃がある。これは、小形の石刃を利用して製作されたもので、アムール川流域の石刃鏃文化と深い関係がある。
ーーーーーーーーーーーーーー
曽根遺跡は旧石器時代末(1万5千年前)から縄文時代草創期にかけての遺跡と推定され、出土品は数万点を遥かに超えている。依然として旧石器時代の石器文化が継承され、石槍としての細石器の技術も日常的に活用されていたが、石鏃にその使用が認められる弓矢が出現する。
曽根遺跡はその多量な黒曜石の石鏃の出土から、石鏃製作場を主とした址と考えられている。旧石器時代や縄文時代を通して剥片石器の代表的素材に黒曜石とサヌカイトがある。ともに産出地は限られていて、希少な石材・石器製品として交易の対象になっていた。
ーーーーーーーーーーーーーー
石鏃は縄文時代の狩猟具を代表する存在であるが弥生時代に至るまで製作されていた。ただ諏訪地方では縄文草創期の曽根遺跡や前期の遺跡では数多く作られるが、中期では少なくなる傾向がある。
ーーーーーーーーーーーーーー
長野県諏訪市上ノ平遺跡が発掘された。
温泉寺高島藩主廟所の上の諏訪湖を見下ろす丘陵から谷筋にかけて遺存する後期旧石器時代の遺跡で、黒曜石製の特徴がある槍先形尖頭器が多数出土した。スクレイパー(皮を剥ぐ石器等)などの遺物もみられ、石材は黒耀石、サヌカイト、頁岩、チャートなどもあったが、黒耀石を主体にした石器の製作場であった。
この時期、中部高地と南関東地方平野部の狩場に、竪穴式の床面と住居の周囲に配礫をし、柱は穴を掘って固定し、中央に炉を備えた、他の集落と独立した伏屋式平地住居より堅牢な家屋が登場する。それが狩場内の石器製作所であった。
大形哺乳類を狩猟対象にする時代が終わり、一地域に集合する環状ブロック集落の役割が消滅した。中小の哺乳類を獲物にするため河川流域に数百m間隔でユニットを営み、それを主軸にする数kmの広範囲に展開する川辺沿いの集落を形成した。これは獲物を河川流域に追い詰める狩猟法で、この川辺集落は、順次川筋に沿い狩場と集落を移動させた。
ーーーーーーーーーーーーーー
栃原とちばら岩陰遺跡
出土層位別の石鏃形状変化 黒曜石がほとんどの石鏃は点数も多く、堆積層の下部から上部へ層位によって変化が見られるのは異例な大発見であったと云える。下部層では小形の三角鏃、上層部になると鍬形鏃や基部に抉れが入った大形の石鏃が多くなる。鳥類の出土状況は、堆積層の中部から下部にかけてヤマドリ・キジの出土量が増加するが、中部から下部へ石鏃が小形化するのと重なり、当時は弓矢による鳥類の狩猟が盛んであったことを裏付けている。
一方岩陰生活の後半期・上層部になると、シカ・イノシシのみを狩の対象とする傾向が見られ、石鏃もよりシャープに仕上げられている。