4/23 福島県三春町
福聚寺から町役場に戻り、工事中の県道を自転車で走り、イラストマップの寺巡りに出かけました。
天沢寺(てんたくじ) 役場Pから0.7Km 三春町字清水361
室町時代に丹伊田村(現在の郡山市西田町)に開かれ、戦国時代に三春会下谷、江戸時代初期に現在地に移る。
江戸時代には、領内18の末寺を束ねた曹洞宗寺院。本堂は壮麗な彫刻で飾られ、境内には安寿と厨子王の伝説にまつわる
身代わり地蔵堂や、四軒丁の修験常楽院から移された西国三十三観音巡りの石塔が立ち並んでいます
本堂裏手の枝垂れ桜
子育て地蔵と六地蔵
身代り地蔵堂
天沢寺の南、
州伝寺(しゅうでんじ) 三春町新町251
江戸時代初期の三春城主松下長綱(在城寛永5年~21年)が、父重綱を開基として建立した松下家の菩提寺
江戸時代には幕府から朱印状を与えられた曹洞宗寺院。本尊は、戦国時代に赤沼村(現在の郡山市中田町赤沼)
から三春城下の丈六谷へ移され、その後、明治になりこの寺へやって来た丈六仏です。墓地には松下氏三代の墓があるほかに、
境内には一時地蔵が祀られる
さらに南下
真照寺(しんしょうじ) 三春町字新町258
江戸時代の三春藩主秋田家の祈願寺で、真言宗の寺。秋田家に古くから関係した寺で、平安時代末期から南北朝時代の
仏教典籍を所蔵します。また、2代藩主秋田盛季が旧領から三春へこの寺を移しました。その際に、藩主が数多くの
優れた仏像・仏画を奉納しました。本堂脇の古四王堂は正徳年間に再建されたもの
古四王堂
桜よりも、寺の裏手の沢の池に群生するミズバショウが見頃
県道を南下していくと、左手に大きな枝垂れ桜が見えてくる
常楽院桜 三春町四軒丁「田母野邸」にある
滝桜の孫、樹齢200年位、枝垂れ1本
三春城址公園から遠くに望んだ 常楽院桜
さらに県道を南下すると右に曲がる坂の手前に井戸がある
旧岩城街道は、化粧清水の少し手前で左折して込木(くぐりき)の金比羅宮・庚申堂に通じていた。
かつてこの井戸は岩城街道を行き交う旅人ののどを潤し、桜と地蔵菩薩は木陰と安らぎを与えてくれた場所であろう
化粧坂の桜 井戸の裏手、三春町新町の化粧坂の途中にある桜。
化粧坂のいわれは未明であるが、この付近に湧き出した温泉を利用して繁盛していた妓楼の女性達がこの井戸水で化粧を
していたことにちなんでいるとも説明されている
岩城街道を通って三春城下に入る武士達が、ここで旅の汚れを落とし身なりを整える慣わしであったことから、
化粧清水と名づけられたとも言う。
続く~
福聚寺から町役場に戻り、工事中の県道を自転車で走り、イラストマップの寺巡りに出かけました。
天沢寺(てんたくじ) 役場Pから0.7Km 三春町字清水361
室町時代に丹伊田村(現在の郡山市西田町)に開かれ、戦国時代に三春会下谷、江戸時代初期に現在地に移る。
江戸時代には、領内18の末寺を束ねた曹洞宗寺院。本堂は壮麗な彫刻で飾られ、境内には安寿と厨子王の伝説にまつわる
身代わり地蔵堂や、四軒丁の修験常楽院から移された西国三十三観音巡りの石塔が立ち並んでいます
本堂裏手の枝垂れ桜
子育て地蔵と六地蔵
身代り地蔵堂
天沢寺の南、
州伝寺(しゅうでんじ) 三春町新町251
江戸時代初期の三春城主松下長綱(在城寛永5年~21年)が、父重綱を開基として建立した松下家の菩提寺
江戸時代には幕府から朱印状を与えられた曹洞宗寺院。本尊は、戦国時代に赤沼村(現在の郡山市中田町赤沼)
から三春城下の丈六谷へ移され、その後、明治になりこの寺へやって来た丈六仏です。墓地には松下氏三代の墓があるほかに、
境内には一時地蔵が祀られる
さらに南下
真照寺(しんしょうじ) 三春町字新町258
江戸時代の三春藩主秋田家の祈願寺で、真言宗の寺。秋田家に古くから関係した寺で、平安時代末期から南北朝時代の
仏教典籍を所蔵します。また、2代藩主秋田盛季が旧領から三春へこの寺を移しました。その際に、藩主が数多くの
優れた仏像・仏画を奉納しました。本堂脇の古四王堂は正徳年間に再建されたもの
古四王堂
桜よりも、寺の裏手の沢の池に群生するミズバショウが見頃
県道を南下していくと、左手に大きな枝垂れ桜が見えてくる
常楽院桜 三春町四軒丁「田母野邸」にある
滝桜の孫、樹齢200年位、枝垂れ1本
三春城址公園から遠くに望んだ 常楽院桜
さらに県道を南下すると右に曲がる坂の手前に井戸がある
旧岩城街道は、化粧清水の少し手前で左折して込木(くぐりき)の金比羅宮・庚申堂に通じていた。
かつてこの井戸は岩城街道を行き交う旅人ののどを潤し、桜と地蔵菩薩は木陰と安らぎを与えてくれた場所であろう
化粧坂の桜 井戸の裏手、三春町新町の化粧坂の途中にある桜。
化粧坂のいわれは未明であるが、この付近に湧き出した温泉を利用して繁盛していた妓楼の女性達がこの井戸水で化粧を
していたことにちなんでいるとも説明されている
岩城街道を通って三春城下に入る武士達が、ここで旅の汚れを落とし身なりを整える慣わしであったことから、
化粧清水と名づけられたとも言う。
続く~
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