4/23 福島県三春町
町の目抜き通りのお祭り道路と名づけられた所から再び散策を開始します。
昔のこの通りの記憶があまりないのですが、かなり綺麗に整備されて拡張されたのかと思いました。
田村大元神社
石造りの橋を渡る
永正元年(1504)に田村氏の三春入城に伴い、三春へ移った神社で、旧名は大元帥明王社。「ミョウオウサマ」と呼ばれます。三春藩領の総鎮守でしたが、現在は新町地区の鎮守です。永仁3年(1295)に奉納された「銅製松喰鶴鏡」は国認定重要美術品。拝殿左右の熊野・八幡両社は17世紀後半の再建で、伊東光運作の金剛力士像一対を納める表門は慶応3年(1867)の再建です
本殿は明治中期に建てられたもので、一間社流造、銅板葺、当時の神社建築をよく表している構造で複雑な木組みや彫刻など凝った造りとなっています。拝殿は入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、梁間2間、正面1間向拝付き。
三春城
三春町(みはるまち)は、戦国大名「田村氏」の築城により500年、
奥州の覇者「独眼流政宗」こと伊達政宗正室「愛姫」のふるさとです
以前学生時代の三春在住の友人の家に泊まった時、夜飯食べた後、車で小高い桜の咲く高台に連れて行ってもらった記憶があります。
たぶんここがその場所だったのでしょう。
夜でもぼんぼりが点灯していて、街の中心部にあるので下から灯りがよく見えます
城趾が故の急勾配の道。車1台分ほどの幅。ここでは自転車を降りて歩きました
坂の途中にある お城坂枝垂れ桜
「お城坂枝垂れ桜=浪岡邸の桜」
旧三春藩士のお庭にある3本の枝垂桜で「浪岡邸の枝垂桜」とも呼ばれている。三春町字南町地内
樹齢 400年(推定)
途中から徒歩で、城址公園の高台に登ると、四方が見渡せる
三春城(みはるじょう)は、陸奥国田村郡(現在の福島県田村郡三春町)にあった城。別名舞鶴城。三春藩の藩庁であった。
三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、桜の名所としても知られている。
三春城は明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、その後、兵部省の管轄となる。それに伴い、建物や石垣等が取り壊され、民間に払い下げられた。その際、ほとんどの建造物は失われたが、藩校明徳堂の表門が三春小学校の校門として移築され、現存する。
その後大正11年(1922年)に山頂部分(本丸)は公園として整備され、道路が開削されるなどして地形は大きく変わった。
また、山麓の秋田氏時代の居舘跡や武家屋敷があった地域は、役場や合同庁舎、公民館、小学校などとなり、この一帯が現在も三春町の中枢地域の役割を担っている
戦国時代の三春城は、山頂部分の本丸に城主居舘を置き、それを中心に郭を配置した典型的な山城であったと思われる。
しかし、前述のとおり、江戸時代初期の松下長綱による改修により、本丸西の山麓部分(現在児童公園)に二の丸、東側の山麓に三の丸が設けられ、それらの周囲の丘陵の中腹地(現在お城坂といわれる登り口付近)には重臣の屋敷が配置された。さらに秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓に移し(現在の三春小学校一帯)、名実ともに近世的な平山城へ生まれ変わった。天守は無かったが本丸下段に三層三階の櫓があり威容を誇っていた。(町HPの説明より)
パノラマ動画
城址公園から国道288に向かう途中に枝垂れ桜の群生があった
光岩寺
R288号に出て、高台にある光岩寺。三春町字亀井光岩寺境内
寺入り口まで急勾配の道、自転車は置いていく
光岩寺桜。寺の境内に立つ5、6本の群生。丘の上から空に突き出すように枝を伸ばす
樹齢200年ほどのエドヒガンザクラ。1本桜で大きい。
境内にある他の枝垂れ桜
これも境内にある別の1本桜
道路の対面の斜面にあった枝垂れ桜
お寺のお堂はそう大きくなかったが・・
江戸時代初期の三春藩主松下長綱の母加藤氏(当時の会津藩主加藤嘉明の娘)が開いた浄土宗の寺。本尊は、鎌倉時代末期に肥後国(熊本県)で、元寇に備えて造立された木造阿弥陀如来立像で、加藤氏が三春へもたらしました。国認定重要美術品で、県指定重要文化財。脇侍の善導・法然立像も同様の遍歴を持つと思われます。墓地には、加藤氏(星覚院殿)の墓所があります。
再び三春町の役場のあるメインストリートに戻ってきまして・・
紫雲寺
紫雲寺とは浄土宗のお寺で、天正15(1587)年に開山したと伝えられています。
本尊は木造阿弥陀如来立像で、木造観音菩薩立像・木造勢至菩薩立像の脇侍があり、いずれも江戸時代初期の作とされています。
本堂は、天明5(1785)年2月22日の大火により焼失し、現在は再建されております。
境内には、自由民権運動家として有名な河野廣中の遺髪を埋めた「磐州河野先生髪冢(エイハツチョウ)」があります。
このほか、戊辰戦争における政府軍戦死者の墓もあります
三春町は、自由民権運動の先駆者河野広中をはじめ、多くの運動家を輩出した町である。
明治維新により成立した政府は、維新を成し遂げた西国諸藩出身者を中心とする藩閥政府であり、国民の自由を守る憲法はもちろんその意志を代弁する国会も置かない不十分なものであった。自由民権運動は、こうした国家のあり方を痛烈に批判し、国会の開設・憲法の発布を目的とし、全国的に展開した運動である。河野広中は74歳の生涯を閉じ、大正15年(1926)には、河野家の菩提寺である紫雲寺に、広中の遺髪を埋葬したえい髪冢が建立された。
三春町文化伝承館 覗いただけ
石畳の道路に面した蔵
この付近綺麗に整備され、散策によろし
王子神社
境内の桜
大町地区の鎮守で、あわせて多賀神社・水天宮を祀ります。地元では「オッシャマ」と呼ばれています。
三春町には聞いたことのある名前の神社が多くある。京都の全国区の社名だった
・北野神社 戦国時代京都の北野神社を三春城内に勧請。境内に撫で牛もある
・愛宕神社(あたごじんじゃ)慶長18年(1613)京都嵯峨愛宕山勧請されたと。 中町地区の鎮守で、火伏せの神
・八幡神社(はちまんじんじゃ) 戦国時代京都石清水八幡から勧請された八幡町地区の鎮守
・八雲神社 戦国時代に京都祇園から牛頭天王を勧請した神社
ほかに三春大神宮
目抜き通りから西の県道飯野三春石川線 通りに並ぶお寺へ
龍隠院:秋田山龍穏院(三師社跡)
三春藩初代俊季の祖父安東愛季の法名を寺号とする秋田氏の菩提寺で、秋田氏の三春移封にともない現在の場所に移った。本堂内に、秋田氏累代の位牌を納めるお堂があり、本堂裏手の墓地には、愛季・8代長季(謐季)の墓、秋田氏尊霊塔がある.
本堂は江戸時代中期に建てられた古建築物で、桁行き14間、梁間7間半の大きさは三春地方最大級
ちょうど東日本大震災の供養会が行われており、お寺の人に誘われて、飛び入りで本堂にて読経拝聴しました
明治11年(1878)、河野広中の肝煎りによって創設された三師社は、自由民権運動を推進するために結成された政治結社である。三春藩主秋田家の菩提寺龍穏院に置かれ、民権運動の演説会場にもなった。戊辰戦争時には傷病兵の病院にあてられたり、明治時代には自由民権運動の演説会場にもなった
続く~
町の目抜き通りのお祭り道路と名づけられた所から再び散策を開始します。
昔のこの通りの記憶があまりないのですが、かなり綺麗に整備されて拡張されたのかと思いました。
田村大元神社
石造りの橋を渡る
永正元年(1504)に田村氏の三春入城に伴い、三春へ移った神社で、旧名は大元帥明王社。「ミョウオウサマ」と呼ばれます。三春藩領の総鎮守でしたが、現在は新町地区の鎮守です。永仁3年(1295)に奉納された「銅製松喰鶴鏡」は国認定重要美術品。拝殿左右の熊野・八幡両社は17世紀後半の再建で、伊東光運作の金剛力士像一対を納める表門は慶応3年(1867)の再建です
本殿は明治中期に建てられたもので、一間社流造、銅板葺、当時の神社建築をよく表している構造で複雑な木組みや彫刻など凝った造りとなっています。拝殿は入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、梁間2間、正面1間向拝付き。
三春城
三春町(みはるまち)は、戦国大名「田村氏」の築城により500年、
奥州の覇者「独眼流政宗」こと伊達政宗正室「愛姫」のふるさとです
以前学生時代の三春在住の友人の家に泊まった時、夜飯食べた後、車で小高い桜の咲く高台に連れて行ってもらった記憶があります。
たぶんここがその場所だったのでしょう。
夜でもぼんぼりが点灯していて、街の中心部にあるので下から灯りがよく見えます
城趾が故の急勾配の道。車1台分ほどの幅。ここでは自転車を降りて歩きました
坂の途中にある お城坂枝垂れ桜
「お城坂枝垂れ桜=浪岡邸の桜」
旧三春藩士のお庭にある3本の枝垂桜で「浪岡邸の枝垂桜」とも呼ばれている。三春町字南町地内
樹齢 400年(推定)
途中から徒歩で、城址公園の高台に登ると、四方が見渡せる
三春城(みはるじょう)は、陸奥国田村郡(現在の福島県田村郡三春町)にあった城。別名舞鶴城。三春藩の藩庁であった。
三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、桜の名所としても知られている。
三春城は明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、その後、兵部省の管轄となる。それに伴い、建物や石垣等が取り壊され、民間に払い下げられた。その際、ほとんどの建造物は失われたが、藩校明徳堂の表門が三春小学校の校門として移築され、現存する。
その後大正11年(1922年)に山頂部分(本丸)は公園として整備され、道路が開削されるなどして地形は大きく変わった。
また、山麓の秋田氏時代の居舘跡や武家屋敷があった地域は、役場や合同庁舎、公民館、小学校などとなり、この一帯が現在も三春町の中枢地域の役割を担っている
戦国時代の三春城は、山頂部分の本丸に城主居舘を置き、それを中心に郭を配置した典型的な山城であったと思われる。
しかし、前述のとおり、江戸時代初期の松下長綱による改修により、本丸西の山麓部分(現在児童公園)に二の丸、東側の山麓に三の丸が設けられ、それらの周囲の丘陵の中腹地(現在お城坂といわれる登り口付近)には重臣の屋敷が配置された。さらに秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓に移し(現在の三春小学校一帯)、名実ともに近世的な平山城へ生まれ変わった。天守は無かったが本丸下段に三層三階の櫓があり威容を誇っていた。(町HPの説明より)
パノラマ動画
城址公園から国道288に向かう途中に枝垂れ桜の群生があった
光岩寺
R288号に出て、高台にある光岩寺。三春町字亀井光岩寺境内
寺入り口まで急勾配の道、自転車は置いていく
光岩寺桜。寺の境内に立つ5、6本の群生。丘の上から空に突き出すように枝を伸ばす
樹齢200年ほどのエドヒガンザクラ。1本桜で大きい。
境内にある他の枝垂れ桜
これも境内にある別の1本桜
道路の対面の斜面にあった枝垂れ桜
お寺のお堂はそう大きくなかったが・・
江戸時代初期の三春藩主松下長綱の母加藤氏(当時の会津藩主加藤嘉明の娘)が開いた浄土宗の寺。本尊は、鎌倉時代末期に肥後国(熊本県)で、元寇に備えて造立された木造阿弥陀如来立像で、加藤氏が三春へもたらしました。国認定重要美術品で、県指定重要文化財。脇侍の善導・法然立像も同様の遍歴を持つと思われます。墓地には、加藤氏(星覚院殿)の墓所があります。
再び三春町の役場のあるメインストリートに戻ってきまして・・
紫雲寺
紫雲寺とは浄土宗のお寺で、天正15(1587)年に開山したと伝えられています。
本尊は木造阿弥陀如来立像で、木造観音菩薩立像・木造勢至菩薩立像の脇侍があり、いずれも江戸時代初期の作とされています。
本堂は、天明5(1785)年2月22日の大火により焼失し、現在は再建されております。
境内には、自由民権運動家として有名な河野廣中の遺髪を埋めた「磐州河野先生髪冢(エイハツチョウ)」があります。
このほか、戊辰戦争における政府軍戦死者の墓もあります
三春町は、自由民権運動の先駆者河野広中をはじめ、多くの運動家を輩出した町である。
明治維新により成立した政府は、維新を成し遂げた西国諸藩出身者を中心とする藩閥政府であり、国民の自由を守る憲法はもちろんその意志を代弁する国会も置かない不十分なものであった。自由民権運動は、こうした国家のあり方を痛烈に批判し、国会の開設・憲法の発布を目的とし、全国的に展開した運動である。河野広中は74歳の生涯を閉じ、大正15年(1926)には、河野家の菩提寺である紫雲寺に、広中の遺髪を埋葬したえい髪冢が建立された。
三春町文化伝承館 覗いただけ
石畳の道路に面した蔵
この付近綺麗に整備され、散策によろし
王子神社
境内の桜
大町地区の鎮守で、あわせて多賀神社・水天宮を祀ります。地元では「オッシャマ」と呼ばれています。
三春町には聞いたことのある名前の神社が多くある。京都の全国区の社名だった
・北野神社 戦国時代京都の北野神社を三春城内に勧請。境内に撫で牛もある
・愛宕神社(あたごじんじゃ)慶長18年(1613)京都嵯峨愛宕山勧請されたと。 中町地区の鎮守で、火伏せの神
・八幡神社(はちまんじんじゃ) 戦国時代京都石清水八幡から勧請された八幡町地区の鎮守
・八雲神社 戦国時代に京都祇園から牛頭天王を勧請した神社
ほかに三春大神宮
目抜き通りから西の県道飯野三春石川線 通りに並ぶお寺へ
龍隠院:秋田山龍穏院(三師社跡)
三春藩初代俊季の祖父安東愛季の法名を寺号とする秋田氏の菩提寺で、秋田氏の三春移封にともない現在の場所に移った。本堂内に、秋田氏累代の位牌を納めるお堂があり、本堂裏手の墓地には、愛季・8代長季(謐季)の墓、秋田氏尊霊塔がある.
本堂は江戸時代中期に建てられた古建築物で、桁行き14間、梁間7間半の大きさは三春地方最大級
ちょうど東日本大震災の供養会が行われており、お寺の人に誘われて、飛び入りで本堂にて読経拝聴しました
明治11年(1878)、河野広中の肝煎りによって創設された三師社は、自由民権運動を推進するために結成された政治結社である。三春藩主秋田家の菩提寺龍穏院に置かれ、民権運動の演説会場にもなった。戊辰戦争時には傷病兵の病院にあてられたり、明治時代には自由民権運動の演説会場にもなった
続く~
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