2016 4/13 福島県二本松市
昨年は天守台/本丸石垣を観なかったので今年は上まで行ってみた。
平成19年(2007年)二本松城跡として国の史跡に指定された。「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている。
昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された
広い広場があって桜の開花時は花見客でにぎわう
城郭由来の建造物として、県指定文化財の茶亭「洗心亭」が、明治時代に城内に再移築され現存する
平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された。
二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城
山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120m
天守台/本丸石垣
北の方角の斜面は桜が
市内を一望
室町時代
畠山氏7代当主・二本松満泰が応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 - 1443年)にこの地に二本松城を築いた。
江戸時代
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した(白河口の戦い・二本松の戦い)。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。
明治5年(1872年)、廃城令によって残る建物も全て破却された
搦手門跡
智恵子抄詩碑
あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川
二本松少年隊顕彰碑
北のふもとにあるテニスコートから仰ぎ見た本丸石垣
桜の海に浮かび上がる
昨年は天守台/本丸石垣を観なかったので今年は上まで行ってみた。
平成19年(2007年)二本松城跡として国の史跡に指定された。「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている。
昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された
広い広場があって桜の開花時は花見客でにぎわう
城郭由来の建造物として、県指定文化財の茶亭「洗心亭」が、明治時代に城内に再移築され現存する
平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された。
二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城
山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120m
天守台/本丸石垣
北の方角の斜面は桜が
市内を一望
室町時代
畠山氏7代当主・二本松満泰が応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 - 1443年)にこの地に二本松城を築いた。
江戸時代
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した(白河口の戦い・二本松の戦い)。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。
明治5年(1872年)、廃城令によって残る建物も全て破却された
搦手門跡
智恵子抄詩碑
あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川
二本松少年隊顕彰碑
北のふもとにあるテニスコートから仰ぎ見た本丸石垣
桜の海に浮かび上がる
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