太宰府市 都府楼址
前回、班田収授の法の解釈について、和辻先生の説を書きましたが、家永三郎先生は租・庸・調・雑徭(ぞうよう)・兵役・出挙(すいこ)など莫大な租税があり、労働や兵役が負担が大きく、「公民」「良民」といいながら、奴隷的性質を持っていた。と説いておられます。
兵士となった人のなかには「防人(さきもり)」として九州北部に送られました。食事や武器は自己負担です。
防人の歌「万葉集」
から衣 すそに取りつき 泣く子らを 置きてぞ 来ぬや 母なしにして
この背景には、東アジアにおける国の争乱がありました。日本は深くかかっていました。
660年 百済が唐・新羅の連合軍により滅ぼされ、それを救うために日本から出陣した。
663年 白村江(錦江河口)で大敗する。
このあと西日本各地に山城を築いて防衛した。大宰府(歴史では太を使わない)が置かれて、その周辺には水城(防塁)や大野城が築かれました。
こうした要員に防人の人達は全国から集められて、帰りは自分で帰らなければならなかった(途中で亡くなることもあった)。
どうも和辻先生の説はちょっと楽観的かもしれません。
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