聖徳太子ののち
中大兄皇子が中臣(藤原)鎌足とともに蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)をほろぼした。・・・大化の改新
この改革のことはわかりにくいのですが、哲学者の和辻哲郎が考察しています。「飛鳥寧楽(なら)時代の政治的理想」
・土地や人の私有をみとめない
・班田収授法
とくに班田収授は現存の戸籍を分析して、(筑前国島(志摩)郡川辺里卜部氏)
戸主 49歳 母 74歳 妻 47歳 長男 19歳 長女 16歳 次女 13歳
次男 6歳 弟 46歳 その妻 37歳 長女 18歳 長男 17歳 次男 16歳
次女 13歳 三女 9歳 三男 2歳 四女 1歳 の一家で、この6年に田地
2町2.6段をもつ。当時は1段米50束=2石5斗で、56石の収穫がある。租税は1石7斗で、収入は54石余となる(そうです)。
これは約135俵の収入にあたるそうで、生活に十分という計算です。つまり、大化の改新で、貴族の私有を離れて、生活できる田地を与えられたということになるようです。
祖のほかに
庸・・・年10日の労働
調・・・米以外の副産物
などの税があるが、田以外の土地があり副業でまかなえるだろうということです。
つまり重税で民を苦しめたという印象がありましたが、本来は民のための平等な配分をとりきめた制度だったと考えられるものです。
もちろん奴婢(奴隷)が全人口の1割ほどいて、すべての人に平等とは言えなかったでしょうが、平等の理想に基づいた政策だったのかもしれません。
覚えるばかりだったこのころの制度を少し具体的に考える方がたしかに理解に近づくような気もします。
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