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宮本武蔵はひきょうもの?

2023-09-02 10:52:05 | 歴史が得意になる

宮本武蔵は剣豪として知られます。

一人で吉岡一門を相手にして勝つなど、非常に強いイメージがあります。

そのなかでも有名なのが関門(山口県の下関と福岡県の門司)の島で行われた巌流島の決闘です。

吉川英治の小説でとても有名で、映画にも描かれますが、わざと試合の時間に遅れて、相手の佐々木(巌流)小次郎をいらだたせて、小次郎の三尺(1mくらい)の長い刀に負けないよう船のかじを削って木刀にして小次郎にダメージを与えた。

というものですが、木刀では致命傷にはならなかったので、ほんとうは加勢の供を連れてはならないのに弟子たちが小次郎を死に至らしめたというのです。

歴史家はどうして江戸時代に入って(1612年頃)、このような果し合いが細川藩のもとで行われたのか、不思議に考えています。

両者は藩の剣の指南役で二人が争った上の決闘だとか考えられますが、武蔵は後に細川藩に召し抱えられますが、この時はそうではないようです。佐々木小次郎もよくわからない人で、福岡添田の人だとか、墓のある山口県阿武郡の人などとされます。

近年、確認された細川藩家老の沼田氏の記録に、巌流島の決闘のあと小次郎の門人が武蔵を追ってきたときに沼田氏を頼って来たので、豊後杵築にいる武蔵の父無二のもとへ送ったと書いているそうです。

つまりこの沼田氏が小次郎を倒すために武蔵を使ったというのが事実のようです。

なぜこのようなことをしたのか?

小次郎の妻はキリシタンだという説があります。キリシタンの剣の指南を藩内に置いておきたくないという考えで、そのころ剣豪として知られた武蔵を使ったのではないでしょうか。

藩の外の人が見ない離れ島で木刀で倒して、命を奪うというのは計画として周到で、武蔵だけで行える仕業ではないようです。

ちょうどこのころ幕府のキリシタン禁制が再度出されて、藩主の細川忠興は領内の棄教・改宗を進めているときでした。

でも実は、忠興の兄弟やこどもにキリシタンがいたのです。ちなみに忠興の奥さんは有名な細川ガラシャです(この時には亡くなっています)。



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1 コメント

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Unknown (kwk966311)
2023-09-02 13:20:25
おもしろい話ですね。
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