本居宣長 画像お借りしました
多くの文化人、のちにいう科学者が長崎を目指したのと反対に、古典の言葉の世界に身をおきながら、そのことばの用例に気を配ったのが本居宣長であろう。
宣長は源氏物語を読んで、「もののあはれ」ということばにしめされる、その時の人の心を尊重した。
そして、そこから日本本来の感情、心をよみとるということを行った。さらにこれは万葉集の詩歌を読むことでさらに高まった。
というような内容を小林秀雄氏が言及している。
古典の物語や詩歌にその時代の人々の、感情(あはれ)を読みとるという現代人には困難な作業であるが、そこに「やまとだましひ(魂)」を感じるということを重視した。
宣長は契沖を「やまとだましひ」なる人とよび、在原業平の歌をひいて、
つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きふけふ(昨日今日)とは おもはざりしも
とこれが人の「まことの心」であるとしたことを共感している。
これは業平のいわば辞世の歌で、のちの世の「ことごとしき」詩歌、つまり漢語を用いたはなばなしい気取りや見栄もないとする。
無論、漢語や修辞を非難するのではなく、そこに日常のすなおな感情があると認めたのである。
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