樺太が島であることを突き止めた間宮林蔵は、伊能忠敬(ただたか)の晩年に師事した。
林蔵は自分が探検した場所を確かに記録したいと思い、忠敬は彼に地図測量を教えた。
林蔵はなかなか野趣あふれる人柄で多くの人は避けがちだったが、忠敬は彼を好み弟子として慈しんだ。林蔵も晩年の忠敬の体を心配して卵を送るなどして子弟の情を交わしたようだ。
林蔵は北のアイヌたちの支援を得て、樺太までの極寒の地の調査を行った。それは幕府の命によるものであったが、ほかのものではできなかったことであった。
忠敬は50歳まで家業を務めたが、西洋の地理測量を学んで日本の正確な地図を制作した。
二人の立場は異なっていたが、日本の地形を正確に知るために大きな働きをしたことに間違いない。
しかし、忠敬の測量した正確な日本地図をオランダ人医師シーボルトに渡したとして、測量の上司高橋景保が捕まり獄死した。(シーボルト事件)
これは林蔵が密告したといわれていたが、どうも同僚の最上徳内の仕業だったといいます。そのため忠敬の仕事を継承することが難しくなったようです。
二人は探検や測量に人生をかけた人たちでした。