ノリです。
ノリの好きな著者に、
コミュニケーション・インストラクターの
山田ズーニーさんがいます。
ズーニーさんの書いた本はだいたい持っていますし、
本の内容や語り口が、とても読みやすく、すぅーと自分の中に
言葉が入ってくる感じがします。
今日は、毎週1本ずつ、ズーニーさんが更新をしている、
ほぼ日刊イトイ新聞の、「おとなの小論文教室。」から、
http://www.1101.com/essay/index.html
どんな人とつきあいたいですか!?というテーマ!!
このテーマで3週にわたって書いています。
良かったら、読んでみると面白いかもしれません。
最初に、ズーニーさんはこんなことを書いています。
私自身、こじんまりの世界におさまってしまうことのほうが、
檻に入れられるようで、たえられなくて、
自分の小さな枠組みから、
一歩でも、たとえ半歩でも、外へ外へ足を出そうと、
格闘してきたような気がする。
結果、友だちは
自分の小さな経験で想像がつく世界から、
はみ出す部分を多く持っている人だ。
(ほぼ日刊イトイ新聞―おとなの小論文教室より抜粋)
ノリには4つほど年の離れた兄がいます。
自宅の隣が、公園ということもあり、晴れている日は
ほとんど公園で遊んでいる子どもでした。
自分が小学校1年や2年の頃は、兄や兄の友だちと混ぜて
遊んでもらうことが多かったです。
仲の良い3人や、5人で遊ぶよりも、公園にいる様々な年齢と
遊ぶことが多くなり、自分が高学年になれば、今度は低学年の子も
交えて、遊んでいました。
学校のクラスの友だちと遊ぶときも楽しいのだが、
やっぱり、公園で色んな学年や子どもたちが混ざって遊ぶほうが
楽しかったと感じている。
その頃から、自分自身が、自分にはないものを持つ他者に
魅力や興味を感じるようになった。
同じところでいるよりも、次から次へと人が入って変化を起こしていく
ずっと同じ仲間でいるというより、新しい仲間を探していったように思います。
わかりあえることの方が楽ではあるのだけれど、
でも、やっぱり分り合えないけど、何か良いという感じ。
中学・高校とテニスのパートナーを組んだ相手は、
幼なじみではあるのだが、分り合っているかといったら、そうじゃない。
タイプが正反対であるため、正面からの衝突はなかったが、
優しく言うことよりも、厳しく言うことで、相手の新たな1面を見た気もした。
1日だけ、一緒に行脚に参加してくれた友だちが、
行脚を終えた後の感想をこんな風に言ってくれました。
アメリカ人、創価学会の人、お坊さん、この旅を支えたアウト・ローな人々。
一見関わりを持たなそうな人々が、そして関係を持てなさそうな人々が、
この旅を通して関係を作り、共通言語を模索しているような気がした。
体育会系のような、強いつながり(ストロング・タイズ)は
持てないかもしれないが、それでも弱いつながり(ウィーク・タイズ)を持とう
とすることが、大袈裟に言えば未来の希望につながっていくのかも知れない
と感じた。
この友だちが言ってくれた、弱いつながりという言葉
例え会って話さなくても、電話やメールでつながらなくても、
どこかでつながっているという感覚
これからは大事な要素になってくる気がします。
読者の皆さんは、誰とつながっていきますか?
ノリの好きな著者に、
コミュニケーション・インストラクターの
山田ズーニーさんがいます。
ズーニーさんの書いた本はだいたい持っていますし、
本の内容や語り口が、とても読みやすく、すぅーと自分の中に
言葉が入ってくる感じがします。
今日は、毎週1本ずつ、ズーニーさんが更新をしている、
ほぼ日刊イトイ新聞の、「おとなの小論文教室。」から、
http://www.1101.com/essay/index.html
どんな人とつきあいたいですか!?というテーマ!!
このテーマで3週にわたって書いています。
良かったら、読んでみると面白いかもしれません。
最初に、ズーニーさんはこんなことを書いています。
私自身、こじんまりの世界におさまってしまうことのほうが、
檻に入れられるようで、たえられなくて、
自分の小さな枠組みから、
一歩でも、たとえ半歩でも、外へ外へ足を出そうと、
格闘してきたような気がする。
結果、友だちは
自分の小さな経験で想像がつく世界から、
はみ出す部分を多く持っている人だ。
(ほぼ日刊イトイ新聞―おとなの小論文教室より抜粋)
ノリには4つほど年の離れた兄がいます。
自宅の隣が、公園ということもあり、晴れている日は
ほとんど公園で遊んでいる子どもでした。
自分が小学校1年や2年の頃は、兄や兄の友だちと混ぜて
遊んでもらうことが多かったです。
仲の良い3人や、5人で遊ぶよりも、公園にいる様々な年齢と
遊ぶことが多くなり、自分が高学年になれば、今度は低学年の子も
交えて、遊んでいました。
学校のクラスの友だちと遊ぶときも楽しいのだが、
やっぱり、公園で色んな学年や子どもたちが混ざって遊ぶほうが
楽しかったと感じている。
その頃から、自分自身が、自分にはないものを持つ他者に
魅力や興味を感じるようになった。
同じところでいるよりも、次から次へと人が入って変化を起こしていく
ずっと同じ仲間でいるというより、新しい仲間を探していったように思います。
わかりあえることの方が楽ではあるのだけれど、
でも、やっぱり分り合えないけど、何か良いという感じ。
中学・高校とテニスのパートナーを組んだ相手は、
幼なじみではあるのだが、分り合っているかといったら、そうじゃない。
タイプが正反対であるため、正面からの衝突はなかったが、
優しく言うことよりも、厳しく言うことで、相手の新たな1面を見た気もした。
1日だけ、一緒に行脚に参加してくれた友だちが、
行脚を終えた後の感想をこんな風に言ってくれました。
アメリカ人、創価学会の人、お坊さん、この旅を支えたアウト・ローな人々。
一見関わりを持たなそうな人々が、そして関係を持てなさそうな人々が、
この旅を通して関係を作り、共通言語を模索しているような気がした。
体育会系のような、強いつながり(ストロング・タイズ)は
持てないかもしれないが、それでも弱いつながり(ウィーク・タイズ)を持とう
とすることが、大袈裟に言えば未来の希望につながっていくのかも知れない
と感じた。
この友だちが言ってくれた、弱いつながりという言葉
例え会って話さなくても、電話やメールでつながらなくても、
どこかでつながっているという感覚
これからは大事な要素になってくる気がします。
読者の皆さんは、誰とつながっていきますか?
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