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秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
歩兵第五聯隊の一部樺太メレヤ附近に於ける上陸
明治三十八年七月七日午後一時二分の状況
2個旅団編成の樺太遠征軍は、日本海海戦後新編制された連合艦隊の第3・第4艦隊からなる
北遣艦隊に護送され、7月7日、樺太南部の亜庭湾岸に侵攻(後の大泊郡深海村女麗-メレイに
上陸)した。当時、南樺太のロシア軍の兵員は、1,200名程度と少なかったため、遊撃戦への
転換を図り、5つのパルチザン部隊が編成された。日本軍は優勢な戦力を背景に、8日には
コルサコフ(日本名:大泊)を占領、10日にはウラジミロフカ(日本名:豊原市-北豊原駅
付近・現在のロシア名:ユジノサハリンスク)を占領した。12日には、ウラジミロフカ西方の
ダリネエ村(日本名:豊原市西久保)付近の林で、日本軍はロシア軍主力を撃破し、捕虜200人を
得た。日本軍は19人が戦死し、58人が負傷した。16日にはコルサコフ方面司令官
アルチシェフスキー大佐も降伏した。しかし、ロシア人パルチザン部隊はその後も1ヶ月以上に
わたって抵抗を続けた。
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