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秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
樺太島我陸戦隊上陸援護お砲艦
明治二十八年七月七日午後零時十五分の状況
樺太作戦(からふとさくせん)は、日露戦争最後の戦い。アメリカ合衆国大統領の講和勧告後、日本は
講和談判を有利に進めるためにロシア領の樺太に侵攻し占領した。
樺太占領は、参謀次長長岡外史の次長就任以前からの持論だった。しかし、1904年(明治37年)9月8日には、
長岡が立案した樺太攻略案は不裁可となった。1905年(明治38年)3月22日に大本営で樺太遠征準備の会議が
開かれたときも、海軍などの反対で実現には至らなかった。
日本の首脳部では樺太占領は消極的だったため、長岡外史参謀次長は満洲軍総参謀長の児玉源太郎陸軍
大将に協力を依頼、1905年6月14日、児玉より、講和談判を有利に進めるために、樺太占領を勧めるとの内容の
電報があった。6月15日に至って、樺太作戦の件が政府・統帥部の協議で決定し、6月17日に明治天皇の裁可が
下り、新設の独立第13師団に出動命令が下された。
樺太占領後の8月10日から開始された日露講和会議(ポーツマス条約)の結果、樺太を東西に横切る北緯50度線
以北はロシアに返還されたが、以南は正式に割譲させ日本領となった。
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