東日本のヒトのための奈良市観光案内⑲ 子供のために
美的なものに触れることの価値は、美しいものに相対峙すると自分の仕事のことや煩わしい人間関係について心の棚卸ができてもっとうまく生きていけるだろうことにある。現に昔話「わらしべ長者」では、お堂の中でほとけさまにお祈りして出世の糸口になるものの啓示を頂いたことになっている。ほとけさまが「啓示」を与えてくれたのではなく、美的なものに触れることで本人の頭の中にあった何ものかが「啓示」になって表れるのであるとわたしは思っている。時々「啓示」を頂かないと人生がうまく行かなくなる。しかも自分のご先祖が残してくれた「美」であるから、ローマやパリまで出向いて得られる「啓示」よりもっとよい「啓示」が得られるに相違ない。
しかし、子供は別で子供はそもそも心の棚卸を必要としないような気がする。それでは、子供にとっては大仏やシカや猿沢池のカメだけが値打ちになってしまうことになりかねない。大仏とシカカメでは遠路はるばるやってくるだけの値打ちがない。京都は仏像と庭園であって、子供向けにはせいぜい金閣寺くらいしか思い浮かばない。そこで、ちょっと遠いけど帰りに伊賀に寄って伊賀の忍者の観光をお勧めする。わたしが小さいころは伊賀の忍者屋敷はこれで入場料とるのかといいたくなるようなものであったが、今は外国のヒトがたくさん見に来るらしいからさぞや充実していると推察される。
むかし聖徳太子が国を建てた時、情報戦を戦う人材を伊賀甲賀柳生名張の地に置いたのが始まりらしい。柳生と名張は廃れたが、柳生出身の人材に窯ゆでになって今はパスタ屋さんの看板になってしまった石川五右衛門がいる。(諸説あるようだが奈良ではこの説が流布していた)この人のお兄さんが柳生但馬守宗矩という名前で将軍家の剣術指南役であったという。
伊賀は台風の目であって、天正時代信長によって焦土にされた。この人日本では珍しく長島や比叡山でも焦土にしている。ヨーロッパの宗教戦争を思わせるところをみると教科書では差しさわりがあって書かないだけで、日本でも宗教戦争が(天草の乱とは別に)ここであったのではないかと疑ってしまう。誰の説であったか忘れたが、本能寺の変をプロデュースしたのは伊賀の忍者であるという説があってなるほどと思う。さらにその直後に堺に居た家康さんを護衛して本国まで連れ戻した服部半蔵も伊賀のヒトである。この人の名前は今も半蔵門の名前で残ってる。絶対名前を残さないのが忍者であるはずなのに、そんな大々的に名前を残しても許されるものなのか。ついでに、東京新宿の百人町は、伊賀百人町といって伊賀から移り住んだ鉄砲隊の拝領屋敷のあったところである。
奈良市との関連では、タクシーの名前をご覧になれば服部タクシーというのが走っている。伊賀から奈良に移り住んだ服部半蔵の一族が設立した会社であるという話を聞いたことがある。大人には多分面白くないが、お子様にはお子様の楽しみが必要だろうと思う。古い日本のCIAやMI6に相当する。