本の感想

本の感想など

六波羅蜜寺の十一面観音像

2024-11-08 16:47:49 | 日記

六波羅蜜寺の十一面観音像

 秘仏で12年に一回の御開帳というので、拝観すればいいことが起こるかもと思い見に行った。遺憾ながら博物館のように全身が見れるようになっていない。頭に10個顔のある冠をいただいているのかさえ見ることができなかったのは残念である。12年に一度であるからもう少し、せめて全身の八割は見せていただきたいところである。これでは遠路はるばる出かけた値打ちがない。

 せっかく奇麗にお化粧しても、12年に一回しか家から出ない主義の美女というのも変な気がする。見てもらうためにお化粧するんじゃないのか。ただでは嫌だというならそれなりにお支払いはするから、毎日お出ましになってほしいものである。

 代わりにタイ風の(またはインド風)の金の仏像を見ることができたのは思わぬ幸運で、同じ仏像でもこうまで雰囲気が違うかと実感する。日本の仏像を拝んだあとにこの金ぴかの仏像を拝むのであるから違いがよく分かる。日本のは死後の安心を願うもので、金ぴかの仏像は生きているうちの繁栄を願うものに感じる。わたしは勿論金ぴかのほうが好きである。まあ安心のために日本の仏様のほうにも挨拶だけはしておこうかというところである。この実感はタイへ行ってタイの仏像だけを見たならば湧いてこないもので、今回比較検討する機会を得たからそう思うのである。美術品鑑賞なら日本の仏さまだが、お願いするのは金ぴかのほうがいい。

 

 六波羅とは恐ろしげなネーミングで寺の名前としては不適切な気もするが、もともとは平家の何らかの役所であったらしい。それが源氏の有名な六波羅探題の役所になりそのあと寺院になったようであるから、このネーミングはやむをえないのかもしれない。


杜子春(芥川龍之介)

2024-11-06 10:36:01 | 日記

杜子春(芥川龍之介)

 私はたぶん中学の時だったと思うが、杜子春の感想文を書けと言われて「門のそばに立って仙人から宝物のありかを教えてもらったというが、そうではないだろう。実際は門を行く人の顔を眺めているうちにお金儲けの方法を思いついて、商売を始めて二度ばかり大成功を収めたの意味だろう。それを神秘的に言わねばならないから仙人のせいにしたんだ。」という意味のことを書いて国語の教師の評判が大変悪かった。

 しかし今でも私は自説の通りだと思っている。たぶん今でもだと思うが、今年の流行の服や色を予言するのに渋谷の街角にじっと立って道行く人を観察するのだそうである。流行の服がわかってそれを仕入れればかなりの儲けを出すことができる。人間観察は、お商売のまず真っ先にやるべきことである。買収とかなんとか言い出すのはそのお商売がもう成熟してあとは衰退するのみという時代に差し掛かっている証拠である、もうこれ以上大きくならないときに同業他社を買わねばならなくなる。杜子春の時代はそんな時代ではなかった。

 

 さて、芥川の晩年の「歯車」などを読むと、杜子春のみずみずしさは片鱗もなく芥川はずいぶん苦しんでいることが見て取れる。この人書けなくなったのである。なぜ杜子春のように道行く人の顔を三日でも四日でもぼんやり眺めて、人々が何を求めているのかを観察しなかったのだろう。または谷崎潤一郎のように関東から関西へ移ってきて関西弁で小説を書くとまたしばらくは持たせることができたのにと残念でならない。

 茶碗のような焼き物を焼いたり絵をかいたりする作家さんが人間観察を要するかどうか私は知らない。しかしこと小説家は人間観察業である。行き詰ったときになぜだれも忠告しなかったのだろう。菊池寛のようなまたは蔦屋重三郎のような名発行人がそばについていればよかったのにと残念でならない。ただ菊池寛と芥川とはコミュニケーションとれていたと仄聞する。