凍ったおにぎり #OnigiriAction
あれは厳冬期の奥日光・八丁の湯への山岳コースだった。すれ違った山屋に「こんな所へ自転車担いで来るなんて死にたいのか!」と怒鳴られた。
おかげでいまだに生きてる。
気温、マイナス12度。
コース選定を完全に見誤った俺たちは、予定していた登山ルートの最奥にある一軒宿に辿り着く事が出来ずに日没を迎えてしまう。
投宿するつもりだったのでビバークする装備は持っていなかった。
陽が落ちると気温は更にマイナス15度まで下がった。
(これは…ヤバいぞ)
凍てついた岩場の暗闇で体力も尽きた。
あの時、俺は自分のザックの中におむすびが1つ、残ってるのを知っていた・・・
でも。
多分、2人はもうダメだから・・友人のTが凍死したら、そのあと俺は・・・一人でおむすびを食って生き残ろうと考えてた。
その後の数時間の話は割愛するが、漆黒の霧降高原ルートを4時間ほど掛けて降り、ようやく日光市街の灯りが遠くに見え、とりあえず遭難だけは免れた。
友人、Tは鼻の頭と手の指が、俺は足の指が3本位凍傷になった。なに、軽度のだからちょっとかゆいなー、くらいのもんだ。あの頃は新田次郎とかの山岳小説に耽溺していたので、凍傷で指を切り落とすのは山屋の勲章みたいなもんでちょっと憧れてすらいた。
旅館街は既に静まりかえり、宿泊は絶望的だった。
深夜の日光駅で一晩、寝ずに夜明かしをする計画に切り替えたが、タクシーの運ちゃんに発見され、なんと懇意の旅館を叩き起こし、宿の手配してもらった。
深夜なのに湯を払った風呂をまた沸かしてくれ、凍えた身体を温めて、暖房の効いた部屋に通され。俺はTに謝った。
「T、ごめん。 俺・・ ホントはお前が死んだら、残ってたおにぎり、一人で食おうとしてた・・」
Tは黙って聞いていたが、自分のザックの中からチョコレートを1枚、取り出した。
Tも俺が先に凍死したら、そのチョコレートを自分だけで食おうと思っていたそうだ。
もう精魂尽き果てて、笑いも怒りも、悲しみも起こらなかったな。ただ疲れて泥のように眠った。
「俺、生きてるなー」と思いながら。
そのおにぎりは宿についてから2時間くらい経っても、ずーっと硬く凍りついたままだった。
その T は27歳で脳出血で突然亡くなった。
1度くらいは酒を飲みながら、あの無謀な山行を語り合いたかったが、それも叶わぬ事となった。
(1981年12月22日〜23日)
(後日談)
この「忌まわしき最悪のツーリング」の事はその後2人の間で話される事はなかった。たぶん俺もTも思い出すのも嫌だったから。
半年後、俺とTは沖縄へ向かうフェリーの中にいた。
二等船室であと一晩、雑魚寝をすれば沖縄だ。
そんな時にTは船内のトイレで旅の全財産(と言っても野宿なので7万くらい)を置き忘れ、慌てて戻ったが既に財布はなく、船内放送までして貰ったが犯人が名乗り出るはずもなく。
沖縄を走るのはTの念願だった。しかし到着目前の凡ミスで旅費を全額失ったTの落胆ぶりはすごいものだった。
「取り敢えず俺の金を半分こして、那覇へ着いたら郵便局へ振り込んでもらえばいいさ」 そう慰めても返事すら返してこないT。
「でもさT。あの時の奥日光と今と、どっちが最悪だ?」
Tは驚いた顔を浮かべながら
「そりゃ…今の方がマシだ。少なくとも生命の危険はないんだから。」
「だろう?金なんかなくたってなんとかなるさーw」
やっと少しだけ笑ったT
那覇港接岸まであと15時間。
山小屋を目指している時は怖くないんですね。最後は自転車を岩陰にデポして這ってでも辿り着けると思ってた。見知らぬベテランハイカーに怒鳴られ、よくやくそれがどれほど無謀な計画だったのかに気づき、撤退を決めた途端に恐ろしくなった。あと数キロ先の宿に泊まれない… そこまで5時間近く登って来てしまっている。ルートが急峻すぎて下りなのに乗れない。
もう40年近く経つのにテレビなどであの付近の山が映るだけで未だに恐ろしい。
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