百節
孟子は言った。
「大人物は、言った言葉を必ず実行するとは限らない。やり始めたことも必ず結果を得られるまでやり通すとは限らない。ただ義に従って言動をなしているのだ。」
孟子曰、大人者、言不必信。行不必果。惟義所在。
孟子曰く、「大人なる者は、言必ずしも信ならず。行い必ずしも果ならず。惟だ義の在る所のままなり。」
<解説>
服部宇之吉氏云う、「大人は達人なり、言必ず信、行必ず果なるは小人なり、大人は言行一に義を以て度と為す、故に言必ずしも信ならず、行必ずしも決ならざることあり、されど信果を輕んずべしと云うに非ず、大義を全うせんが為に小節を顧みざる場合あるをいう、子が父の罪を隠す如き之なり。」
百一節
孟子は言った。
「大人物は、赤子のような純粋な心を失わないものである。」
孟子曰、大人者、不失其赤子之心者也。
孟子曰く、「大人なる者は、其の赤子の心を失わざる者なり。」
<語釈>
○「大人」、趙注:大人は君を謂う。これに因れば、「大人」は国君を指しているが、前節に続き、広義に大人物と解釈し、具体的には国君であると解釈しておくのがよいだろう。
<解説>
「赤子の心」を、大人の心とする説と、民の心とする説がある。趙注に云う、「大人は君を謂う、君、民を視ること、當に赤子の如くし、其の民心を失わざるの謂なり、一説に曰く、赤子は嬰児なり、少小の心は、專らにして一に未だ変化せず、人能く其の赤子の時の心を失わざれば、則ち貞正の大人と為る。」どちらを採用してもよいと思うが、私は後説の大人の心に解釈した。大人物は大人になっても赤子のような純粋な心を失わないという意味である。
百二節
孟子は言った。
「生存中の親に孝養を尽くすのは、当然の行いであって、特に大事な事とするほどものではない。ただ親の死に際しての葬儀だけは、真に重大な事だと言ってよかろう。」
孟子曰、養生者、不足以當大事。惟送死、可以當大事。
孟子曰く、「生を養うは、以て大事に當つるに足らず。惟だ死を送るは、以て大事に當つ可し。」
<語釈>
○「養生者~」、趙注:孝子の親に事え養いを致すは、未だ以て大事と為すに足らず、終わりを送るに禮の如くするは、則ち能く大事を奉ずと為すなり。
<解説>
日頃親に孝を尽くすのは、当然の事であって、取り立てて言うほどの事ではないが、葬儀に関しては、最後の孝養であるので、その重要性を認識すべきことを言っている。
百三節
孟子は言った。
「君子が、深く道に達する為に、それぞれの道、方法で追及するのは、自ら会得したいからである。自ら会得すれば、その道に安らかに居ることが出来る。安らかに居れば、それを頼りにより深く追求することが出来る。そうしてより深い道を会得することが出来れば、身近などんな出来事に対しても、その根本に行く就くことが出来る。だから君子は道を自得しようと思うのである。」
孟子曰、君子深造之以道、欲其自得之也。自得之、則居之安。居之安、則資之深。資之深、則取之左右逢其原。故君子欲其自得之也。
孟子曰く、「君子の深く之に造(いたる)るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に居ること安し、之に居ること安ければ、則ち之に資ること深し。之を資ること深ければ、則ち之を左右に取りて其の原に逢う。故に君子は其の之を自得せんことを欲するなり。」
<語釈>
○「造之以道」、趙注:「造」は「致」なり。服部宇之吉氏云う、「之道」の二字同格、道に至るに道を以てするなり。○「資之」、趙注:「資」は「取」なり。朱注:「資」は猶ほ籍なり。この二注を取り入れて、由りて取る意に解す。○「左右」、朱注:左右は、身の兩旁、至近にして一處に非ざるを言う。○「原」は、「源」に通じ、みなもと。
<解説>
何事においても、根本を理解することが要であることを説いているのだが、これは非常に大事な事である。人間は限られた時間の中で、知ることのできることは限られている。今の時代、マニュアルが無ければ何もできない人が増えている。そんなことは考えれば分かるだろうと言いたいことが沢山ある。一を聞いて十を知る能力を培うべきである。