九十節
孟子は言った。
「舜は諸馮に生まれ、負夏に遷り、鳴條で亡くなった、東方の片田舎の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢で亡くなった、西方の片田舎の人である。それぞれ地を隔てること千餘里、時代を隔てること千餘歳である。それなのに志を得て天下に於いて行った事業は、割符を合わせたように一致している。それは先の聖人も後の聖人も、その考えや行いが同一であるということだ。」
孟子曰、舜生於諸馮、遷於負夏、卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周、卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也、千有餘里。世之相後也、千有餘歲。得志行乎中國、若合符節。先聖後聖、其揆一也。
孟子曰く、「舜は諸馮に生まれ、負夏に遷り、鳴條に卒す。東夷の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢に卒す。西夷の人なり。地の相去るや、千有餘里。世の相後るるや、千有餘歲。志を得て中國に行うは、符節を合するが若し。先聖後聖、其の揆一なり。」
<語釈>
○「符節」、玉に文字を刻み、それを半分にして互いに持つ、割符である。○「揆」、趙注:揆は度なり。考えや行い。
<解説>
趙岐の章指に云う、「聖人、世を殊にして、其の道を合す、地、比ばずと雖も、由りて一軌に通ず、故に以て百王の法と為す可きなり。
九十一節
鄭国の名臣子産が国政をあずかっていたとき、人々が歩いて溱水や洧水を渡っているの見て、自分の車に載せて渡してやったという。孟子はこれを批評して言った。
「非常に仁愛深い行いであるが、本当の政治と言うものを知らない行為である。農繁期に入ったらすぐに人民を集めて橋の工事にかかれば、十一月には歩いて渉る橋が、十二月には車を通せる橋が出来る。そうすれば人民は苦労せずに川を渡ることが出来る。為政者はその政を公正にやりさえすれば、外出した時に前の人民を人払いをさせたとて一向に差し支えない。とてもではないが一人一人を車に載せて渉らせることなど出来ない。為政者は大局的に物事を見るべきで、人ごとに恵みを施し悦ばせようとしていたら、幾ら日にちが有っても足るまい。」
子產聽鄭國之政,以其乘輿濟人於溱洧。孟子曰:「惠而不知為政。歲十一月徒杠成,十二月輿梁成,民未病涉也。君子平其政,行辟人可也。焉得人人而濟之?故為政者,每人而悅之,日亦不足矣。」
子產、鄭國の政を聽き、其の乘輿を以て、人を溱洧に濟せり。孟子曰く、「惠なれども政を為すを知らず。歲の十一月には徒杠成り、十二月には輿梁成らば、民未だ渉るを病まざるなり。君子、其の政を平らかにせば、行きて人を辟けしむるも可なり。焉くんぞ人人にして之を濟すを得ん。故に政を為す者は、人每にして之を悅ばさんとせば、日も亦た足らず。」
<語釈>
○「子產」、鄭の卿で名臣であり、大政治家として有名。○「溱洧」、溱(シン)水、洧(イ)水○「徒杠」、徒歩で渉る仮橋。○「輿梁」、車が渡れる橋。○「行辟人可也」、服部宇之吉氏云う、外出して道を行く時に通行人を拂いて道を避けしむるも差支えなしと云う義。
<解説>
十一月、十二月については、周暦と夏暦の二説がある。趙岐や朱子は周暦とする。阮元は夏暦とする。この説を承けて服部宇之吉氏は云う、十一月、十二月は農事の閑なる時を擇べるなり、夏は徒渉苦しからず、又洪水ありて橋を失うこと多きを以て冬期に至りて架橋するなり、歳の某月と云うは、夏の代の暦を以て云うなり、趙注は誤れり、と。これにより私は夏暦説を採用している。
子産については、『春秋左氏伝』などを読んでいるかぎり、大政治家であり、この程度の事に気づかないとはとても思えない。この話は一つの説話として当時伝わっていたのであろう。