百六十五節
孟子が鄒に住んでいた時、任国の留守居役で、国君の弟季任が礼物を贈って交際を求めてきた。孟子は礼物は受け取ったが、答礼には行かなかった。平陸に滞在していたときも、齊の宰相であった儲子が、礼物を贈って交際を求めてきた。孟子は礼物は受け取ったが、答礼には行かなかった。後日、鄒から任国に出かけたとき、季任に会って答礼をしたが、平陸から齊に出かけたときは、儲子に会わなかった。弟子の屋廬子は、これで先生の考えに付け込む隙間を見つけたと喜んで、孟子に尋ねた。
「先生は任国に行かれた時は、季任にお会いになられましたが、齊に出かけたときは儲子にお会いになられませんでした。それは儲子が宰相で、国君の弟である季任より身分が低いからですか。」
「そうではない。『書経』の周書洛誥篇に、『物を贈るには礼儀を厚くするものだ。物を贈るのに礼儀が伴わないことを、贈らないのと同じで、不享と言う。それは贈り物に真心がこもっておらないからだ。』とあるが、私が儲子に会わなかったのは、心のこもった真の贈り物で無かったからだ。」
屋廬子は納得し悦んだ。だがそれを納得しないある人が屋廬子に尋ねた。屋廬子は言った。
「季子は任国の留守居役で鄒に行くことは出来なかったので、あれで礼を尽くしたことになるが、儲子は平陸に行くことが出来たのに行かなかった。これは礼を欠いているのだ。」
孟子居鄒。季任為任處守。以幣交。受之而不報。處於平陸。儲子為相。以幣交。受之而不報。他日由鄒之任、見季子、由平陸之齊、不見儲子。屋廬子喜曰、連得閒矣。問曰、夫子之任見季子、之齊不見儲子、為其為相與。曰、非也。書曰、享多儀。儀不及物曰不享。惟不役志于享。為其不成享也。屋廬子悅。或問之。屋廬子曰、季子不得之鄒、儲子得之平陸。
孟子、鄒に居る。季任、任の處守為り。幣を以て交る。之を受けて報ぜず。平陸に處る。儲子、相為り。幣を以て交る。之を受けて報ぜず。他日、鄒由り任に之き、季子を見、平陸由り齊に之き、儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、「連、閒を得たり。」問いて曰く、「夫子、任に之きて季子を見、齊に之きて儲子を見ざるは、其の相為るが為か。」曰く、「非なり。書に曰く、『享は儀を多くす。儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志を享に役せざればなり。』其の享を成さざるが為なり。」屋廬子悅ぶ。或ひと之を問う。屋廬子曰く、「季子は鄒に之くことを得ざるも、儲子は平陸に之くことを得たりしなり。」
<語釈>
○「季任」、趙注:任は薛の同性の小国なり、季任は任君の季弟(末弟)なり。○「儲子」、趙注:儲子は齊の相なり。○「連得閒」、趙注:連は屋廬子の名なり。「得閒」の解釈は諸説ある、服部宇之吉氏云う、得閒とは、孟子の行為に就いて乘ずべき間隙を得たりとの意。付け込む隙を見つけたということで、これを採用する。○「享」、朱注:享は、上に奉ずるなり。物を献上する意。
<解説>
進物はただ贈ればよいというものでなく、それに心がこもっていることが大切なのである。だが実際には形式的に物を贈ることは多々あり、それはそれでよいと思うが、儒教の世界では許されないのだろう。趙岐の章指を紹介しておく。
「君子の交接の動は、禮に違わず、享見の儀は、亢答に差あらず、是を以て孟子或いは見、或いは否らず、各々其の宜しきを以てするなり。」
百六十六節
淳于髡が言った。
「名誉と功績を第一に考える人は、人の為に尽くそうとする者です。名誉と功績を二の次に考える人は、ひたすらわが身を修めようとする者です。先生は齊の三大臣の一人でありながら、名誉功績が未だ上は国君、下は民にまで及んでゆかないのに、お止めになって齊を去ろうとしておられます。仁者とはそういうものなのですか。」
孟子は言った。
「賢者でありながら民間に隠れて不肖の君に仕えなかったのが、伯夷である。民を救おうとして、五たびも桀王に仕え湯王に仕えたのは、伊尹である。心の汚れた君でも気にせず仕え、どんな低い官職でも辞退しなかったのは、柳下惠である。この三人の者の進んだ道はそれぞれ異なっていたが、目指す所は同じであった。その目指す所とは何か、仁である。君子たる者が目指す所のものも亦た仁である。目指す所の仁が同じであればよいのであって、同じ行動をとる必要はないのだ。」
「魯の繆公の時には、公儀子が国を治めていて、賢者で知られる子柳・子思が臣として仕えておりながら、魯の領土は以前にもまして削り取られていきました。賢者とはこのように国にとっては何の役にもたたない者なのでしょうか。」
「虞国は百里奚を用いなかったために滅亡し、秦の繆公は彼を用いて覇者となった。このように賢者を用いなかった場合には亡びてしまうのであって、地を削られるぐらいで済めばよいほうだ。」
「昔、歌の上手な衛の王豹が淇水のほとりに住んでいたので、その付近の河西地方の人たちはみな歌がうまくなった。緜駒は齊の西の方の高唐に住んでいたので、齊の西部の人たちは歌が上手になった。華周・杞梁の妻は夫が戦死したとき、その痛み悲しんで哭する姿は人々をを感動させ、以後齊の風俗をすっかり変えてしまった。このように内にある者は必ず外に感化を及ぼすもので、仕事をきちんとしているにもかかわらず、その実績が現れないということは、私は未だ嘗て見たことがありません。このことからして齊の国がいっこうに実績が上がらないということは、齊の国には賢者がいないのでしょう。もしいれば私にも必ず分かるずです。」
「昔、孔子が魯の司寇という名の大臣になったとき、その意見はほとんど用いられなかった。ある時主君に従って祭りに参列したが、祭祀が終わっても、礼として分配されるべき供え物の焼き肉が分配されなかった。そこで孔子は礼服の冠を脱ぐ暇も惜しんで、そそくさと魯国を去った。この行為に対して、孔子を知らない人たちは、焼き肉が分配されなかったからだと言い、知っている人たちは、魯君の態度が礼に欠けていたが為だと言った。だが実際はどちらでもなく、孔子は以前から魯を去りたいと思っていたが、口実がなく去れなかったので、今君の礼に欠ける態度を見て、これは大臣である自分の微罪でると思い、それを理由に魯を去ったのであって、むやみに去ろうとされたのではない。このように君子の行いは、凡人にはとうてい分からないものだ。」
淳于髡曰、先名實者為人也。後名實者自為也。夫子在三卿之中、名實未加於上下而去之。仁者固如此乎。孟子曰、居下位、不以賢事不肖者、伯夷也。五就湯、五就桀者、伊尹也。不惡汙君、不辭小官者、柳下惠也。三子者不同道、其趨一也。一者何也。曰、仁也。君子亦仁而已矣。何必同。曰、魯繆公之時、公儀子為政、子柳・子思為臣。魯之削也滋甚。若是乎、賢者之無益於國也。曰、虞不用百里奚而亡、秦繆公用之而霸。不用賢則亡。削何可得與。曰、昔者王豹處於淇、而河西善謳。緜駒處於高唐、而齊右善歌。華周・杞梁之妻善哭其夫、而變國俗。有諸內必形諸外。為其事而無其功者、髡未嘗覩之也。是故無賢者也。有則髡必識之。曰、孔子為魯司寇、不用。從而祭、燔肉不至。不稅冕而行。不知者以為為肉也。其知者以為為無禮也。乃孔子則欲以微罪行。不欲為苟去。君子之所為、衆人固不識也。
淳于髡曰く、「名實を先にする者は人の為にするなり。名實を後にする者は自ら為にするなり。夫子は三卿の中に在りて、名實未だ上下に加えずして之を去る。仁者は固より此の如きか。」孟子曰く、「下位に居り、賢を以て不肖に事えざる者は、伯夷なり。五たび湯に就き、五たび桀に就く者は、伊尹なり。汙君を惡まず、小官を辭せざる者は、柳下惠なり。三子の者は道を同じうせざるも、其の趨は一なり。一とは何ぞや。曰く、仁なり。君子も亦た仁のみ。何ぞ必ずしも同じからん。」曰く、「魯の繆公の時、公儀子、政を為し、子柳・子思、臣為り。魯の削られるや、滋々甚し。是の若きか、賢者の國に益無きことや。」曰く、「虞、百里奚を用いずして亡び、秦繆公之を用いて霸たり。賢を用いざれば則ち亡ぶ。削らるること何ぞ得可けんや。」曰く、「昔者、王豹、淇に處り、而して河西善く謳う。緜駒(メン・ク)、高唐に處り、而して齊右善く歌う。華周・杞梁の妻、善く其の夫を哭し、而して國俗を變ず。諸を內に有すれば、必ず諸を外に形わす。其の事を為して其の功無き者は、髡未だ嘗て之を覩ざるなり。是の故に賢者無きなり。有らば則ち髡必ず之を識らん。」曰く、「孔子、魯の司寇と為りて、用いられず。從って祭りしに、燔肉至らず。冕を脱がずして行る。知らざる者は以て肉の為なりと為し、其の知る者は以て禮無きが為なりと為す。乃ち孔子は則ち微罪を以て行らんと欲す。苟くも去ることを為すを欲せざるなり。君子の為す所は、衆人固より識らざるなり。」
<語釈>
○「名實」、趙注:名は道徳を有するの名なり、實は、國を治め民を惠するの功實なり。名誉と功績。○「五就湯、五就桀者」、趙注:伊尹は湯の為に桀に貢せられ、桀用いずして湯に歸す、湯復た之を貢す、此の如くすること五たび、民を濟わんことを思い、其の道を施行せんことを冀うなり。○「趨」、服部宇之吉氏云う、趨は心の趨く所なり、此にては履むところの道を云う。○「削何可得與」、趙注:賢無くんば國亡ぶ、何ぞ但に削らるるを得るのみならんや、豈に賢を用いざる可けんや。他の解釈もあるが趙注に從う。○「王豹」、趙注:王豹は衛の善く謳う者なり。○「緜駒」、朱注:緜駒(メン・ク)は、齊人、善く歌う。○「燔肉不至」、「燔肉」は、祭祀に供えられた焼肉。「燔肉不至」とは、祭祀が終われば供え物の燔肉は大臣たちに分配するのが礼であるのに、分配されなかったこと。○「欲以微罪行」、趙注:微罪を以て行らんと欲するは、燔肉至らず、我黨として祭りに從うの禮備わらざるは、微罪有らんや。主君に従って参列した祭祀で主君が礼を欠いたことは、大臣である自分の微罪であると思ったという意。他にも諸説あるが、趙注に從う。
<解説>
さすがに淳于髡と言うべきか。かの孟子もその返答に窮しているさまがよくうかがえる。淳于髡の三つの質問に対して、孔子の答えはどれもその真意から外れているようだ。孟子お得意のごまかしと言う所か。
孔子について、「苟くも去ることを為すを欲せざるなり。」と孟子は述べているが、其の心の中は誰にも分らない。