三十九節
孟子は齊に仕えていたが、母が亡くなったので魯に還り、葬儀を済ませて齊に戻る途中に、齊の領内の嬴という町に滞在した。その時弟子の充虞が尋ねた、
「先日はふつつかな私にもかかわらず、棺を作る仕事をお申しつけになりました。その時疑問に思うことが有ったのですが、何分葬儀の事で忙しく、お尋ねすることが出来ませんでした。今日は是非お教え願いたいのですが、棺に使用した木材が少し立派すぎたのではないでしょうか。」
「大昔には内棺も外棺も決まりごとはなかった。中古の周になってから、内棺の厚さは七寸と定められ、外棺の厚さもそれに見合うものになり、それは天子から庶民に至るまで皆同じであった。立派な棺を作るのは、唯だ単に外観を立派にするだけでなく、亡き親に対する気持ちを十分尽くせるからだ。法律により身分の差で葬儀の内容を制限されたりしたら、親への気持ちが十分尽くせず満足できない。又財産がなくて作れなければ満足できない。制度上も許され且つ財産も有れば、昔の人は皆立派に作ったものなのだ。私一人がどうしてそうせずにおられようか。更に埋葬した親の肉体が土に還る日まで、出来る限り土を近づけないようにすることは、子の気持ちとして親への思いを十分に尽くしたと満足させることにならないだろうか。私はこういうことを聞いたことがある、『君子は天下の為だからと言って、親の喪に倹約はしないものだ。』と。」
孟子自齊葬於魯。反於齊、止於嬴。充虞請曰、前日不知虞之不肖、使虞敦匠。事嚴。虞不敢請。今願竊有請也。木若以美然。曰、古者棺槨無度。中古棺七寸。槨稱之。自天子達於庶人。非直為觀美也,然後盡於人心。不得、不可以為悅。無財、不可以為悅。得之為有財、古之人皆用之。吾何為獨不然。且比化者、無使土親膚、於人心獨無恔。吾聞之、君子不以天下儉其親。
孟子、齊自り魯に葬むる。齊に反り、嬴に止まる。充虞、請いて曰く、「前日は虞の不肖なるを知らず、虞をして匠を敦(おさめる)めしむ。事は嚴なり。虞、敢て請わず。今願わくは竊かに請うこと有らん。木以(はなはだ)だ美なるが若く然り。」曰く、「古者は棺槨度無し。中古は棺七寸。槨、之に稱う。天子自り庶人に達す。直に觀の美を為すに非ざるなり。然る後人の心を盡くすなり。得ざれば、以て悅びを為す可からず。財無ければ、以て悅びを為す可からず。之を得ると財有ると、古の人皆之を用う。吾何為れぞ獨り然らざらん。且つ化するときの比まで、土をして膚に親しましむる無きは、人の心に於いて獨り恔(こころよし)きこと無からんや。吾之を聞く、『君子は天下を以て其の親に儉せず。』」
<語釈>
○「自齊葬於魯」、趙注:孟子、齊に仕え、母を喪くし、葬に魯に歸る。○「敦匠」、趙注:敦匠は厚く棺を作るなり。「敦」は“おさめる”と訓じ、「匠」は棺の義。○「事嚴」、喪事、急なり。○「棺槨」、「棺」は、内棺、「槨」は外棺。○「不得~無財~」、服部宇之吉博士云う、國法の定むる所により斯々の身分には斯々の葬儀を営むことを得ずと云えば、孝子たるもの其の心に満足すること能わず、若し國法上にも差障りなく幸いに相応の資財もあらば、誰人も皆十分の葬儀を営まんと欲するなり。「財」の解釈については、資財でなく、木材と解する説もある。○「比化者」、趙注:親の體の変化するときの比まで。土に還る日までという意味。
<解説>
親の葬儀を子としてどの程度の内容にするかは、昔も今も変わらぬ大切な事である。直に觀の美を為すに非ざるなり。然る後人の心を盡くすなり、と述べられているように、残された人の心の問題である。
四十節
齊の大臣の沈同が孟子に個人的に尋ねた、
「燕は伐ってもよろしいでしょうか。」
孟子は答えた、
「よろしいとも。燕王の子噲は天子の命を受けずに勝手に國を人に与えることは出来ないし、大臣の子之も天子の命も無く、勝手に國を譲り受けてはならないのである。仮に家臣がいて、その者を大層気に入り、王様に何も話さず、勝手に王様から与えられている俸禄や爵位をその者に与え、その者も王様の命も無いのに受取るようなことは、許されるだろうか。子噲が国を譲り、子之が受けたのも、どうしてこれと違いがあるでしょうか。」
その後、齊は遂に燕を伐った。そこである人が孟子に尋ねた、
「先生が齊に燕を伐つことを勧めたというのは、本当でしょうか。」
「そのようなことはない。沈同が、燕を伐ってもよろしいか、と尋ねたので、よろしい、と答えたのです。それで彼は燕を伐ったのです。もし彼が、どういう人なら伐ってもよいのか、と尋ねれば、私は、天から使命を受けている天子ならば、伐ってもよろしい、と答えるつもりでした。今、人を殺した者が居り、誰かがこの犯人は殺してもよいか、と尋ねたならば、私は、よろしい、と答えるでしょう。もし、どのような資格のある者ならば、殺してよいのか、と尋ねられたら、裁判官なら殺してもよい、と答えるであろう。今、燕と変わらない無道な政をしている齊が燕を伐つ、どうして私がそんなことを勧めるものですか。」
沈同以其私問曰、燕可伐與。孟子曰、可。子噲不得與人燕。子之不得受燕於子噲。有仕於此。而子悅之、不告於王而私與之吾子之祿爵、夫士也、亦無王命而私受之於子、則可乎。何以異於是。齊人伐燕。或問曰、勸齊伐燕、有諸。曰、未也。沈同問、燕可伐與。吾應之曰可。彼然而伐之也。彼如曰孰可以伐之。則將應之曰、為天吏、則可以伐之。今有殺人者、或問之曰、人可殺與、則將應之曰、可。彼如曰、孰可以殺之、則將應之曰、為士師、則可以殺之。今以燕伐燕。何為勸之哉。
沈同、其の私を以て問いて曰く、「燕伐つ可きか。」孟子曰く、「可なり。子噲は人に燕を與うることを得ず。子之は燕を子噲に受くることを得ず。此に仕うるもの有り。而して子、之を悅び、王に告げずして、私に之に吾子の祿爵を與え、夫の士や、亦た王命無くして、私に之を子に受けなば、則ち可ならんか。何を以て是に異ならんや。」齊人、燕を伐つ。或ひと問いて曰く、「齊に勸めて燕を伐たしむと、諸れ有りや。」曰く、「未だし。沈同、燕伐つ可きか、と問う。吾之に應えて曰く、『可なり。』彼然り而して之を伐てるなり。彼如し『孰か以て之を伐つ可き。』と曰わば、則ち將に之に應えて、『天吏為らば、則ち以て之を伐つ可し。』と曰わんとす。今、人を殺す者有り、或ひと之を問いて、『人は殺す可きか。』と曰わば、則ち將に之に應えて曰わんとす、『可なり。』彼如し『孰か以て之を殺す可き。』と曰わば、則ち將に之に應えて曰わんとす、『士師為らば、則ち以て之を殺す可し。』今、燕を以て燕を伐つ。何為れぞ之を勸めんや。」
<語釈>
○「沈同」、趙注:沈(シン)同は齊の大臣なり。○「子噲~燕於子噲」、趙注:子噲は燕王なり、子之は燕の相なり、孟子、可なりと曰うは、子噲、天子の命を以てせずして、擅に國を以て子之に與え、子之も亦た天子の命を受けずして、私に國を子噲に受けしを以てなり。○「天吏」、二十八節に既出、天命を奉じている天子のこと。○「士師」、十三節に既出、獄官、裁判官のこと。
<解説>
三十七節で、孟子の狡さを述べたが、この節もそれが窺える。齊が燕を伐ち、それが孟子の勧めであるという噂が立ってから、誰が討伐してもよいかと聞かなかったから、よろしいと答えたのであって、齊が伐つ事を認めたわけでもなく、まして勧めたりしないなどと言い訳するのは、まことに見苦しく且つ狡い。この当時、燕の無道は知れ渡り、齊が燕を伐つのは自明の理のようなものであった。故に沈同の言葉には、そのような内容も含まれていると解するのは自然の事であり、それがはっきりしないのならば、教条的な返答をするのでなく、孟子自身が明らかにすることである。
子噲が子之に國を讓る話は、詳しく書けば長くなるので、興味のある方は、私のホームページ(http://www.eonet.ne.jp/~suqin)から、『史記』の燕召公世家の318年の条と『戦国策』巻第二十九の燕策一の四百三十七節を参照してほしい。