![]() | 京都人は日本一薄情か 落第小僧の京都案内倉部 きよたか文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
平成17年7月20日第1刷発行。
著者の倉部きよたかは1951年大阪生まれ。中学卒業後15歳で京都の紫野大徳寺に小僧として入るが、2年で破門され京都を転々とする。関西学院大学中退。早稲田大学卒業。国連関連の文化団体で10年出版と機関誌編集を担当。その頃よりラテンアメリカの日本人移民史に興味を持つ。著者の実家は賃織り機屋。母親が過労で寝たきりになり著者が物心ついた時には寝たきりの状態だった。著者は5人兄妹の下から二番目。母親の世話をすることが著者の仕事となり、小僧に出ようと思ったのはそれからの逃避。
私用で京都に行くことがあり、どうせ行くのならばと前知識を付けるために読んだ本の一つ。本屋に並ぶ観光用雑誌なんかよりよほど良かった。
京都に縁の薄い者にとって京都の街のスケールが分かりにくいのだが、歩いてみると案外こじんまりしていることに気づく。
付け焼刃的な知識であっても京都の街の成り立ち変遷を思い出しながら町を歩くと、何の変哲も無い風景もキラキラと輝いて見えるから不思議。
![kyoto1](/user_image/22/ec/05604c4cfa3f128e0faa2e0b7c0f57c6.jpg)
平安京の朱雀大路は現在の千本通。地図を見れば分かるが現在の京都市街の繁華な場所からずっと西にずれた場所に平安京のセンターラインがあった。平安中期になると朱雀大路の西の部分は廃れる。元々湿地だったためらしい。
院政期に入ると元の朱雀大路の東部分が上京と下京に分かれる。上京は貴族、下京は商人の町となる。境は二条大路。
室町期になると上京と下京はそれぞれ土塀と堀を設けて分立状態となる。その時代に清水寺あたりから見下ろすと北と南に町が二つ並んだように見えたことだろう。
織田信長はその分立した上京と下京の統一を図る。上京と下京の間に二条御所をつくる。
豊臣秀吉は信長のやり方を引き継ぐとともに、元の朱雀大路の東部分を御土居と呼ばれることになる土塀で囲み、現在の京都の市街地の原形を作った。
御土居は北野神社の北で見えることになっているのだが、行ってみたが谷と一体化してよく分からなかった。それより市街地に点々と残骸が残っているのでそちらを探した方が良いだろう。
以下メモ
--↓-----------------------------------------
P40 御土居(1591年)細屋川に沿った船岡山の西、北野神社の北
秀吉が建設した御土居の内側が京都と正々堂々と名乗れる範囲か・・・。京都の町割りも秀吉によって根本的に変えられた。550m間隔でならぶ三条、五条とかいう通りで街路が作られていたが、この間に三本の小さい通りが入る。南北も同様。つまり140m四方で一区画。秀吉はこれを140mと170mを一区画にした。南北の通りのそれぞれの区画の真ん中に通りを設けた。寺社を寺町に集中させたのも秀吉。本願寺を京都に移したのも秀吉。
P51 京都市と長岡京市 「御土居」1591年秀吉が作る。現在に残っている場所は京都市街の北部に数ヶ所。土塁で高さは1.5m~3.6m。長さ23km。堀の幅は3.6~18m。東は鴨川~加茂川に沿う。南は京都駅、観智院、西は島津製作所の東側を北の天満宮、大徳寺に向けて上る。金閣寺は外側になる。上賀茂神社の南あたりが北限。 |
P44 八坂神社 正面は南側の南楼門
P42 村井吉兵衛(1864-1926)
P48 松原通り もともとは五条通り
現在の五条通りは六条坊門小路といっていたのを秀吉が方広寺の大仏殿をつくるときに拡張整備して、五条橋を移して架け替えた。弁慶と牛若の五条橋も現在の五条橋ではなく松原通りに架かっていた橋となる。
P51 朱雀大路は現在の千本通
清水坂は清水寺の創建(782-806)の頃にできたものか。中世以来、山科を通って東海道へ出る要所。清水坂から産寧坂にかけての清水の門前は馬借、車借の溜まり場。盗人や坂の者と呼ばれた「らい者」や非人、乞食などのたどりつく場所。古くは街も東は寺町、河原町あたりまで。清水の南は鳥辺野(とりべの)という風葬、鳥葬の地。
比叡山という山は無い。大比叡(848m)四明岳(835m)
P50 六道の辻
清水の南は鳥辺野 風葬、鳥葬の地。六道珍皇寺あたりは鳥辺野の入り口。珍皇寺の西、西福寺の角にそれを示す碑。六道とは(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)
P114 見世は長屋門の変形
坊は四保。保は四町。町を東西に四分、南北に八分した東西に細長いブロックが一戸主。宅地配分の基準となる。一町は三十二戸主。一坊が十六町。坊は七十一。戸主に換算すると三万六千三百五十二。宅地は垣(土塀)で仕切られていた。平安後期1030年、宅地は六位以下には四分の一町以下とし垣と屋根を檜皮葺にすることを禁じた。このため垣をつくることができず、建物を通りに面してつくらざるを得なくなり、垣の代わりに長屋門をつくって通りとの仕切りにした。見世は長屋門の変形である。町屋は平安の家屋の変形ミニュチュア版。
P150 蹴上の発電所
現存最古の水力発電所。この発電所を作る前の計画では、岡崎から銀閣に至る疎水の縁に水車を並べ、工場を誘致して近代化を図るというものだった。ヨーロッパの最新水力発電所を取り入れたため水車案は廃案となり、結果疎水近辺の景観も守られた。
P176 出町
京七口の大原口。行き着く先は小浜。
![kyoto1](/user_image/6e/cd/3ba4726351453af0208dcbc310d28b1f.jpg)
--↑-----------------------------------------